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最新版トイレ読書論

私がいま住んでいる家のトイレには窓があって、窓の手前に突っ張り棒のラックがある。そこには予備のトイレットペーパーや掃除道具を置いているんだけど、最近はそこに適当に選んだ雑誌を置くようになった。

もともとトイレで本を読むのが好きで、よく母親に注意された。「トイレで本を読むのやめなさい」小さい時から、どちらかというと狭いところが好きで、トイレのあの閉鎖性と静寂、俗世から切り離された感覚の中で、誰にも見られていない安心感に包まれながらパンツを下ろし、完全に自分をOFFにして本を読むのが好きだった。

もちろん外のトイレで本なんか読まない。仕切りはあってもやはりそこはパブリックなスペースで、いつ誰にドアをノックされるかわからない。もしかしたら扉を蹴破って誰かが入ってくる可能性もゼロではない。あくまで可能性の話だけど。

千葉にある実家は三階建で、一階と二階にそれぞれトイレがあった。私はもっぱら二階のトイレを使っていた。一階のトイレよりも少し狭くて居心地がよかったし、二階だから窓からの光がより強く入る。そして何よりも静かだった。家で仕事をしていた父は居間をオフィス代わりにしていて、基本的に家にいる。テレビ大好き父ちゃんだったので居間のテレビは常についていて、そこから漏れ聞こえてくる音が、私を「パブリックスペースの一部にいる感覚」からどうにも出してくれなくて落ち着かない。そこで、二階のトイレに行く。

ちょっと家族の話をすると、母は大学の図書館に40年以上勤めていたこの道一筋のライブラリアンで、父との出会いも職場の図書館だったそうだ。宮崎の田舎で育った父は大学進学を機に上京したらしいが、その際に祖父から「東京はなんでも一番が集まる。なるべく多くの一番を見てこい」と言われたらしい。祖父は10年前に86歳で亡くなったけれど、写真に書道に俳句に歌舞伎に、いつもハイカラな趣味をプロアマチュアよろしく楽しんでいた。お葬式にあの市川家からのお花があったのは驚いた。

そんな父と母だったからか、対して広くもない実家の廊下には本が所狭しと並んでいて、人がギリギリ通れる隙間しかない。震災の時にその本棚から本が大量にこぼれ落ちて大変だったのを覚えている。父の趣味だと思うが全集系が多くて、漱石全集やら司馬遼太郎全集やら源氏物語全集やら、やたら重たく埃っぽい本で埋めつくされている廊下が、私は嫌いじゃなかった。子供ながらに、友達の家のそれとは全然違う雰囲気なのもちょっと特別感があって優越感を感じたし、なによりも本の背表紙を眺めているのが好きだった。

古い本ばかりだ。今だったらネットで検索すれば簡単に答えが出てくることを何百ページにもわたって解説していたりする。例えば「引用の仕方 〜本を活用した論文の書き方〜」とか。(これは昔、母が誰かと共同で書いたものらしい。時代を感じる。)日に焼けて埃っぽい背表紙。場所がないから平積みにされた本の厚み。廊下に漂う紙の匂い。それが私の家だった。


話をトイレに戻そう。

そんな本だらけの廊下を通って二階のトイレに入る。もちろん手にはなにかしらの本を持って。ただ、その本は両親の蔵書ではなく、私が自分で選んで買った本だった。図書館で借りてきた本もたまにはあったけれど、あまり多くなかった。「自分の本」しか自分のパーソナルスペースに持ち込みたくなかったからだ。

トイレは神聖な場所だ。パンツを下ろして他人に一番見られたくない姿で、仮想世界に脳内をぶっ飛ばすのだ。図書館から借りてきた、いうてしまえばパブリックに帰属する本なんかを、神聖なる個人領域に入れてはならない。そんなものに私の全てはかけられない。根が真面目なので公共のものを万が一でも汚したくないとも思う。だから私はトイレの前に「リカココーナー」を勝手に作って、そこにトイレで読みたい本を溜めていった。

最初は「サザエさん」とか「意地悪婆さん」とか当時はまっていた長谷川町子の漫画本からはじまったのだけれど、だんだんと児童書や文庫なんかも増えていって、ある時、ミヒャエル・エンデの「モモ」を持ってトイレに入ったら気づいたら2時間経っていた。我ながらさすがに驚いて、硬い便座のせいで冷えて痛くなったお尻を抱えて、しれっとトイレをでた。


今も昔も、家のトイレで本を読むのが好きだ。

完全無欠のパーソナルスペースで、一番見られたくない秘部を曝け出して、新しい世界に、誰かの言葉に、脳内をぶっ飛ばすのが大好きだ。


1年半前から徳島の田舎町に移り住んで、一軒家を借りている。自然の中の古民家というわけでは全然なくて、海までは徒歩5分だけど、住宅街の中に建つ築年数は相当だけどわりかし現代的な家で暮らしている。畳と襖と押入れ。典型的な昭和の日本家屋。私がくる少し前まで大家さんの息子さんご家族が暮らしていたので水回りは最新のものに変えられているから全く不便もない。窓が多くどの時間でも太陽の光が部屋の中に入ってくる快適な家だ。

その中でトイレだけがちょっと異様だったりする。なぜ、誰が、そうしたのかはわからないけれど、木造で、木の茶色と襖のクリーム色と壁の鶯色なんかが印象的な柔らかい雰囲気の家なんだけれど、トイレだけは完全にアナザーワールド。扉を開けると床一面と壁の胸の高さくらいまで黒いタイルで覆われている。入ってすぐの左手には男性の小便器があって(もちろん使っていない)、奥には最新のウォシュレットがついた便器が鎮座している。


「TDLのスペースワールドみたいだな」というのが私の最初の感想。

前住んでいた奥さんの趣味だろう、窓にかかる赤いチェックの小さな暖簾もこの空間に超絶アンバランスなのがまたいい。

そのトイレに最近、雑誌や本を置き始めた。きっかけはなんとなくだし、昔を思い出してとか、そんな大した理由もない。家に本棚がないので雑誌の置く場所に困ったのと、やはり昔の癖で本や雑誌を持ってトイレに入ることが多いから、空いたスペースにそれらが溜まっていくのは必然だったかもしれない。

トイレに持ち込む本は、昔は文庫や漫画本が多かったけれど、今は雑誌が多い。物語に没入するというよりかは、リラックスしながら雑誌をパラパラめくって言葉を拾うのがいい。見落としていたり、以前見た時にはなんとも思わなかったことが、いきなりバーンと響く瞬間があるのが楽しい。


偶然の、バーン。

一瞬の閃光、からの超新星爆発、からの新惑星の誕生、的な。さすがに大袈裟な表現ではあるけれど、まあそんなことがたまに我が家のトイレで起きている。それがとても楽しい。


なんでこの記事を書こうかと思ったのかも、その偶然のバーンが大きく作用していて、「よしいっちょやってみるか」って気になったから。大して意味ない文章をさも意味ありげに書いてみたくなった。というか、私にとってはトイレと読書に関わる考察は、わかんないけど、紫式部と十二単くらい重要なんだけど(紫式部と十二単の関係がどんだけかは知らんけど)、興味ない人からしたら絶対どうでももいいのはわかるし、基本的に私に興味がある人なんか一握りの友人と両親くらいだから、この世にこの文章に興味がある人なんんて多分10人もいないから、まあ好きに書こうかなって思って。


と、いうのも。

今私のトイレの本棚にはPOPEYE(マガジンハウス)の特別号「僕の好きな映画」特集があって、またいつものごとくなんとなくペラペラしてたら、なんとなくある映画監督のインタビューが目に止まった。注目の若手映画監督の幼少期から映画を撮るきっかけや経緯の話、映画を撮ること自体についてのインタビュー。その中で、駆け出しの頃に撮った長編映画が、「自分のやりたかったことの5%も実現できなくて落ち込みました」だったんだって。


そこを読んでね、そうか。って思った。そうだよなって思った。

映画監督でも写真家でも漫才師でも、もしかしたらビジネスマンでも、一回の表現、一回の撮影、一回の記事、一回の仕事、一回の何かで自分の実現したいことの100%が完璧にできることってすごく難しいし、なんならそっちの方が珍しいし、だからみんなできなくて落ち込んでるんだなって。みんなできなくて落ち込んでるんだなって。大切だからもう一回言うけど、みんなできなくて落ち込んでるんだなって。

正直な話をすると、私、文章を書くことにビビってました。すごく、ビビってた。理由は明確で、うまく書けなかったらどうしよう、表現したいことや伝えたいことがうまく伝わらなかっらどうしようって怖くて怖くて書くこと自体に躊躇ってた。

・完璧じゃなくてもいいじゃん!
・やり続けることが大切だよ!
・みんな怖いよ!
・がんばろうぜ!

必要な言葉はすでにこの世にたくさん出回っていて、すでに自分の頭の中にあることの方が多い。でもそれを腹で理解してるかっていうと、それとこれとは別だったりする。頭ではわかってても恐怖って結構、根深い。シンプルであればあるほど感情って行動に直結しちゃう。だから書きたかくなかった。自分には才能がないって自分で認めることが怖くて。

でも、なんでかわからないけど、今日のさっき、寝起きで髪もボサボサ、歯もまだ磨いていないから口の中が気になる、そんな状態でトイレに入ってパンツを下ろして、なんとなくでめくったページから、偶然のバーン。やっと不必要な古い星が爆発してガスになってくれた感じ。なんでだろう、自分でもよくわからない。

「偶然」って「偶然」だからこそ、出会ったモノや出会い自体に加速度的に重みを持たせることができる最高のスパイスなのかもしれない。どっかで誰か神様みたいな人が操ってるのかもしれないけど、必要な時に偶然って偶然として必然的に現れてくれる、だから偶然って大切。好き。そんなふうに思う。


インターネットの中に生きている私たちにとって、感覚として完全に切り離されて独りになること、感覚としての完全プライベート空間、必然までも感じちゃう偶然の出会い、それら全てが、今なかなか手に入り辛くなっている。そんな中で「トイレで読書」は結構良い処方箋なのかもしれない。少なくとも私にとっては、とても。

これが私の最新読書論。最新版トイレ読書論。

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