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それにしても雨が降る、また降る

この文章を書いている今日は、夕方から雨予報です。
雨雲レーダーによると、あと小一時間もあれば降り始めるのだそう。

図書館からの帰り道。
今にも泣き出しそうな、太陽に嫉妬して拗ねているみたいな雲を見ていると、
文章を書いたり作曲したり舞台に立ったり絵を描いたり、出来事や感情を別の方法で表現しようとする人たちって、雨雲みたいだな。
ってそんなことを思いついて、頭の中で流れ始めたのは、カーペンターズの「Close to You」でした。

今まで生きてきて人並みにいろんなことを経験して、いろんな人に出会って、
それらはぜんぶ、記憶の雲の中に貯蔵されています。(iCloud的な)
十年前のこと、去年のこと、昨日のこと、今朝のこと、三分前のこと。
どうでもいい記憶からどんどん忘却炉に放り込まれていくから、思い出そうとしても思い出せないんだけれど、
どんな過去も(忘れたと思い込んでることさえ)、今の私を構成している要素の一部です。
だからたまに、
「なぜか分からないけど悲しい/淋しい」
と感じたりするのは、いつか抱いた感情のうわずみだけが残っていて今に作用しているからで、
そして実際に起こった出来事よりもそっちの方がよっぽど大事なことで、
そのうわずみを、違うルートを通して外に送り出そうとする行為そのものが表現なのだろうか。
と、ぐるぐる考えていました。

まだ言語化出来ない、感情の処理が追い付かないとき。
なんかそれって、会ったことのない、いるのかいないのかも分からない誰かに片想いしてるみたい。
そう思うと、余計にどんよりと暗く憂鬱な気分になって、
でもそんなとき、雲間から差し込む一筋の光みたいにそっと温めてくれて、血の巡りを良くしてくれて、捨てたもんじゃないなって思わせてくれるのは、
素晴らしい音楽だったり、小説だったり、演劇だったり……。
人の心に寄り添ってくれるもの、ヒントをくれるもの、ほっとさせてくれるもので、そういうものを創り出す人たちが降らす雨を浴びて、心は潤いを取り戻すものなのかもなぁ。
そんなこと考えながら、本濡れたらどうしよと心配もしながら、早歩きで帰りました。

先日観劇して感激した舞台「リア王」の余韻から、まだ抜け出せていなくてですね。
改めて”舞台を観に行く”という行為って、なんてアナログなんだろう。
コロナ蔓延を期に、動画配信サービスや飲食デリバリーもだいぶ普及して、ネットショッピングで欲しいものはあらかた手に入るし、家から一歩も出なくても、誰とも会わなくても生きられる時代。
聴きたい音楽もダウンロードすればいつだって聴けますね。

そんな中。
”わざわざ”チケットを入手し、
”わざわざ”服を着て電車で会場に足を運ぶ。

”わざわざ”恐ろしく長い時間と労力をかけて台詞を覚え、
”わざわざ”身を粉にして稽古に励み、カーテンコールに応える。

生身の人間が、今の時代に”わざわざ”動いて喋る。
摩擦を起こす。
本番の一瞬に命を懸けてからだをヒリヒリさせながら、物凄い緊張感をもって突っ走る。
客席側にも伝染する、ヒリヒリ。

その過程で生まれるエネルギーの総量でなにかしらの革命起こせるんとちゃうの、と思うくらい稀有で尊い空間だと思うのです。冷静に。
だから、「よし、この舞台を観に行こう」と決めた瞬間から芸術体験は既に始まっているようなもので……、
って言ったら大袈裟なようですが、「どこにも行かなくても楽しめる現代」だからこそ、芸術はより深い意味を持つような気がします。
気付けばそこにもくもく、雨雲が出現してるんですね。

「雨!雨!降れ!降れ!もっと降れ!」
と叫びたくなったのはそういうところからで、なにも、八代亜紀に想いを馳せたからではありません。

Just like me
They long to be close to you.

「Close to You」-Carpenters-


降り始めました。
躊躇いながら、申し訳なさそうにチョビチョビ落ちてきよる。
ちょっと前までは空気がひやっと澄んでいて、纏わりつくような雨じゃなかったのに、
最近だいぶ気温も上がり、モワッと鬱陶しい湿気です。

あなたがこの文章を読む頃、そこにもこんな感じの、誰かに嫉妬していじけたような雨雲が立ち込めているかな。


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