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「アジャイルは楽しい」だけで押し切らずにアジャイルとは何かを言葉にする

 結局のところアジャイルで何が嬉しいのか。ということを「楽しい」という感情だけで押し切らないとしたらどう言えるのか。ウォーターフォールの何がダメで、アジャイルのどこが対比的に機能するのか。

 ここを丁寧に語ろうと思った動機については前回既に書いている。

 最初の問いに答えようとするのは、意外と難しい。それはまさにアジャイルが経験主義に基づくものだからと言えるだろう。「アジャイルの何が良いのか?」を語るためには自分の身の上におきたことを説明することになる。経験はどうしたって主観的なものだ。自分のことを自分で説明するのは難しい。

 そんな時は「感情」が手がかりになる。感情は解像度はともかく、比較的言葉にしやすい。楽しかった、面白かった、いい感じだった。だから、アジャイルの良さをあらわすのに、「感情」が用いられることが多い。

 「アジャイルは楽しい」
 「楽しいってどういうこと?」
 「楽しいは楽しいから、それで良いじゃないか」

 感情で通じ合うには、互いに経験していることがだいたい合っている必要がある。互いにアジャイルを営んでいるからこそ、経験を参照することができる。つまり、詳細を言葉にしていないくても、「だいたい合ってる」感覚をともにすることができる。「アジャイルは楽しい」「そう楽しい」という掛け合いを言い合っていても何の違和感もない。

 もちろん、これを組織の中で通していくのは、困難だ。「感情」は組織の中の「通貨」(共通認識にできる対象)にはなっていない。楽しい、楽しいだけでは通じない。
 そして、唯一認識あわせのソース元となる「アジャイルの体験」自体が組織の中で薄い、あるいは存在しないものだから、空をつかみ合うような会話にならざるを得ない。自分の中にはあるが、相手の中にはないものについて、相手に分かるように語らなければならない

 組織の中での経験が薄いと、わずかな情報をもとに解釈、判断を行う必要があり、誤認識、誤解も生じやすい。誰かのn=1の経験を拡大して、より広く、より高度な判断に用いる流れになりかねない。例えるなら、2-3人くらいのチームで小さくはじめたアジャイルを、「組織としてのアジャイル」を語るための材料にする、といった具合だ。

 ゆえに、「アジャイルならやっている」「アジャイルとはこうだ!」という勇ましい言葉がかえって聞こえてくることがある。蓋を開いていくと、ごく小さな経験を限られた情報・知識で解釈したものでしかない、ということが珍しくない。経験を頼りにするのは合っているが、経験の量と質が伴っていかないと、あらぬ方向に突き進んでいって帰ってこれなくなる。気をつけよう。

 ではでは、どうしたらいいのか? 最初に戻って、アジャイルの良さを伝えるためには? 結局は自分の言葉で言語化してみようとすることだと思っている。繰り返すが完全に言葉にするのは難しいし、そもそもの経験自体が不足しているだろう。それでも、その時点の自分の感情をもとに、何がそう感じさせるのかを手がかりに言葉にしてみようとする。

 「してみようとする」の過程から、「こういうことだったのか」という自分自身の新たな知識が生まれることがある。「してみようとする」を続けながら、経験自体を増やしていく。そうすうことで、言葉に出来ることは増えていく。

 言葉の補完になればと思い、置いておきます。


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