見出し画像

大事なのは、その次の言葉。

 DXでも新規事業でも良いのだけど、そうした取り組みで人が「ともに動いていく」ためには何が必要だろうか。

 そうした活動では、方針の変更が頻繁に起こる。どこへ向かって進めば良いかの答えがない、もとより探索的な活動なわけだから必死の舵取りとなる。舵取りによって、やることも当然頻繁に変わる。

 難儀は、そうした活動を組織でやっていくところにある。方針、WHYが変わっていても、現場がそれに気づけ無い。あるいは、やるべきこと、WHATが雨後の筍ごとく、唐突に溢れ出してきて、対応ができない。といった具合。

スクリーンショット 2021-01-09 11.16.25

 WHATだけが降って湧いてきても、WHYが伴わければやらされ仕事になりやすい。WHATからWHYを汲み取れる人は、自分でWHYを補充して動くことができるが、皆がそう達者であるわけではない。

 WHYを確かにしながら仕事をしている人ほど、唐突にふりかかるWHATには拒否感が出てくるし、仕事にWHYが無い人は言われたとおりにただやるだけになる。前者はハレーションに発展し、後者では「何がしたかったんだっけ?(新たなケイパビリティを養うはずだったでは?)」になりかねない。

 というわけで、WHYが必要、WHYとWHATと両立をさせたい、という話になるわけだ。ただ、一つの組織となると、舵取り役と現場の間に距離が出てしまう、役割上関心の濃淡が出てくるのもやむを得ない。だからこそ、WHYとWHATの間が繋がるように意図的な働きかけが必要になる。勝手に上手いことは繋がらない(というか放置はリスクでしかない)。

 厄介なのは、こうした認識は絵を描けば繋がるが、それを現実にするには当然HOWが必要だということ。 

スクリーンショット 2021-01-09 11.16.30

 WHYが高邁で、それゆえに求められるWHATのレベルが高いほど、実行で苦しむことになる。ここの現実的な手当てがないと、上手くいかない。さしあたって現有のケイパビリティで何とかしようとする(しか無い)が、結果が出ない。WHYと結果との乖離が、さらに意気を消沈させていく。

 一方で、WHYから見れば、HOWとはいわゆる手段でしかない。手段は何でも良い、手段が大事なわけではない、といった言葉で表現されやすいように、HOWのポジションはどちらかというと低めだ。このあたりの見方が、「作戦の無い、高邁な炎上」へと繋がっていく。いくらWHYを磨いて、発信したとしても、WHATだけを挙げ連ねても。

 実際、「アジャイル自体はどうでも良い(いい感じなシステムができれば良い)」とか、まあまあ未だに耳にするわけですよ。いや、そうですね、と。ただ、大事なのはその次の言葉ですよ。「アジャイル自体はどうでも良い、で、ぽっかり空いたHOWはこうやって埋めるんですよ」と。

 「次の言葉」が出てきたことは、過去一度たりとも無い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?