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正しさが、組織の息の根を止めていく。

 新しい事業アイデアを育てるプログラムで、どうにかひねり出した仮説を経験豊富な上層部からコテンパンに叩きのめされる。珍しいことではない。よくある構図だ。プログラム伴走をつとめると、こういう局面を必ずといって良いほど目の当たりにする。

 あいまいで、何も筋道がみえない中で、それでも仮説を整えて、どうにか最初の段階を乗り越えようと(この手のプログラムはステージ制の設計が織り込まれる)、手がかりを掴んで審判の場に臨む。そこで、即時ノックダウン。3カウントさえ要らない。むしろ早くリングから助け出した方が良いのではないかと思えてしまう。

 洗礼の内容としては至極もっともで、正しい。さすが、年の功というべきだ。長年の領域であれば経験に裏打ちされた、確かな教えが洪水となって溢れでてくる。自分の知っている正しいことで、自分の認識している自分の役割(未熟なアイデアをバウンスするゲートキーパー)を果たそうとする

 正しい。だが、一方で、これを老害と呼ぶのだろうと感じた。

 正しいことを、役割に基づき正しくつとめる。それを然るべき地位(経営)、然るべき年齢の人がやってしまうことを、そう呼ぶのだ。

 これはアイディエーション活動に限ったことではない。デジタルトランスフォーメーションの一環で、採用技術のアップデートをしようと、組織に働きかける際も同じだ。これまでの方針や、あてはめるルールからすると認められない(問うまでもない、当然のことだ)。あるいは膨大な説明を求められることになる。そうしたバリデーションが機能することによって、組織として正しい判断が機能しているようにする。それが、ゲートキーパーの正しいつとめなのだ。

 自身の経験に照らし合わせて、組織活動に誤謬が混じらないよう、確実性を高めるように動く。だが、変革にめがけて動く組織に求められるのは、そんなことではない。

 確実な判断、確実なアウトプットを作ろうとしても、この現代においては、構想する事業もプロダクトも跡形もなくなって残らないだろう。全くの逆だ。確実性をいかに高めるかではなくて、不確実性を生み出すためにはどうしたら良いか。高まる不確実の中にこそ、形にまだ出来ていない「可能性」がある。

 自分の知っている正しさの限界を知りながら、年齢的に、あるいは組織上与えられている自分の役割を越境して、次に来る人達をエナジャイズ(励まし、後押し)して欲しいと願う。

 "正しさ"によって、自分自身の身動きが取れなくても良い。その代わり、自分が果たせない可能性を、次の人達に賭ける。このアイデアや提案がどうなれば、一丁賭けられるか。そこを助言して欲しい。DXの現場からは以上です。

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