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いつ、自分の考えや判断が「正しい」と、評価できたのか?

 この人とは意見がいつも合わない。どう考えても、自分のこれまでの知見に照らし合わせると、こちらのほうが可能性があると思うのだけど。そこが相手に伝わらない。もう1年か、何年か前に自分は辿ってきた既出の話なんだよ…。もう、いい加減分かってくれないかな。時間がいくらあっても足りない。

 と、思うことはあると思う。私も、よくある。一方で、この話の結論を先に述べると、

いつ、自分の考えや判断が正しいと、評価できたのか?
(本当に、自分の考えや判断が正しいを評価できるのか?)

この問いを常に傍らにおいておきたい。自分が正しいといつ分かったのか、本当に分かったのか。状況から、確率的に、そう言えるだけなのではないか。

 と、考えると、まあ、自信に陰りが出てくる。よほど一般的か、難易度の低いお題でなければ、いや、そりゃ絶対とは言わんよ…となる。

そう、自分の意見や判断の根拠、それは仮説に他ならないじゃないか。

 「いや〜、でも、さすがにこっちは相当な経験を踏んで、相手が言っていることはもうだいぶ前に自分も全く同じことを考えて、評価済なんだよね!」 と、それでもなお言いたくなる気持ちも分かる。私も、よくある。一方で、もう一つオピニオンを追加すると、

この先も、相手が自分と全く同じ考えや判断に至ると予測できるのか?

を、胸に刻んでおきたい。

 自分と同じ考えを辿って、やっぱりこのアイデアダメや、にきっとたどり着く。同じようなことをやってみて、きっとたどり着く。むしろ、この人はセンスがあるから、自分のように結論づけられるはずだ(と、無意識に自分を高みにおいちゃう)。だから、そんなことにもう時間をつかうのはよせ…。と、言い切れるほどに、相手のことを本当に分かっているのか

 「この人とはこうである」というのは常に、相手の内にあるものではなく、自分の中にある「相手」でしかない。人間というものを分かった気になっちゃいけない。

 自分と異なる相手が、次の瞬間何を口走るかは常に分からない。同じ前提と同じ状況、同じ結果から、何を言い出すのか。どれだけ同じであっても、自分とは違う人間が想定しない、考えや判断を口にする可能性は常にある。

「いや、やってみたんですけどね…。それでも俺は、もうワントライしてみたいと思うんですよ。なぜなら….」

 一体、何を根拠に、いや、何を仮説として立てているのか。その発想は、既に自分が考えられる、思いつける、範疇を越えている。そこに目を向けずに、落としていく時点で、自分の限界がそのチーム、組織の限界になる。少なくとも、多様性云々なんて、言っちゃいけない。多様性という概念を甘くみるな。

「まじかよ。もう良いだろう。いい加減にしようぜ。このことにどこまで時間をかけるんだよ。」

 それでも、そう思うのも分かる。私も、しばしば思う。正直、時間は大切にしよう。だけど、これも「探索」のうちなんだよ。人に宿る不確実性の可能性を諦めるほど、私達は何かを分かっているわけではないんだ。


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