見出し画像

天才という奇跡

松岡正剛「遊学」に挑むことにした。amazonで5000円ぐらいした。辞書のように分厚い。届いてみたら初版本で、開くと「謹呈」の帯が挟まっていた。灼けた紙の質感と匂い。歴史に思いを馳せ、陶然とした感覚に溺れたくなるのを堪えて、ページをめくる。

序文を読む。問題意識は明確だ。そして我が精神は完全に、とまではいかずともかなり良いところまでシンクロしている。一文ごとの意味やそれ同士の関連を意識的に把握することはできなくとも、感じていける。文字を追うこと自体に快感がある。

しかし、一週間の活動とその落とし前としての焼き肉、ジョッキビールにやられた私の精神は当然ながら体力を低下させており、40ページほど進んだところで、意識を失い、夢の国に誘われることとなった。

朧げな感覚のなか、「世界観とは、その主体の持つ環境についての知識の総和である」という命題がやってきた。松岡正剛風の表現だなと思った。それを書きたくて、このnoteを書こうと思ったんだ。

妻は疲労している私を慮って、子どもらを公園に連れ出そうとしてくれている。有り難い。朦朧としながら感謝する。しかし、いつものことだが、随分と支度が長い。一時間ぐらいガタガタ、ドタバタ、やっている。Eテレがワンワンの歌を流している。かねてから、どうしてテレビを流すと時間が速く流れるのだろうと不思議だった。テレビが消えると、確実に、時はスローダウンする。きっと、「テレビは時間に尺度を与える」からなんだろうな、と、次の天啓がやってきた。尺度、あるいは単位を持たないことが、対象を融通無碍にし、伸び縮みさせる。

しかしそれにしても支度が長い。我がスマホは居間にあり、私は寝室にいる。彼女たちが出掛けてからnoteを書こうと思ったのだが、このまま待っていたら、何を書こうとしていたかを、いやそもそも何かを書こうと思ったことさえも、忘れてしまいそうだ。

遊学を開く。少しだけ読み進める。面白い。やばい、読んでると、ますます忘れそうだ。

ドアが開く。妻が見下ろしている気配を頭上に察する。「起きたの。」と一言。起きているところを感づかれて、なんか、しまった、という気がした。起きてるなら、寝てないで、ちょっと子どもを連れて遊びに行ってよ。そんな心の声が聞こえる。なんだその、パンがないならケーキを食え的な理不尽な命令は。しかしそれは勝手に我が心のなかで聞こえているだけで、彼女はそんなことは多分思ってない。

何か物を取って、ドアが閉まる音。やれやれ。とにかく、いま思いついてnoteに書こうと思ったことを忘れないように、脳内で反復する。どうして手元にスマホを置いておかなかったのか。

流れ続けるEテレの声。何かがおかしい。出掛ける支度は果たして進捗しているのか。しょうがない、ええままよと思い立って、布団から這い出てスマホを取りに行く。

ドアを開けると、次女がパジャマでテレビの前に陣取っていた。

あまりにも予想と反する光景に、頭の中が混乱した。つい、「公園行くんじゃなかったの?」と、妻に聞いてしまった。ちょっとムッとする気配。「あなたと違って、支度には時間がかかるのよ」「どうせ早く出て行って欲しいんでしょ」

いや、違うんだ。いや、いやいや、違わなくはないんだけど。でも、違うんだ。おれはただ、予想と現実があまりに違っていて、どっちが真実なのかを確かめたかっただけなんだ。

いまこの現象そのものが、「世界観とは、その主体の持つ環境についての知識の総和である」のケーススタディだなと思った。知識は大抵の場合、間違う。間違うという言葉が不穏当ならば、「あらゆる知識は例外を内包する」とでも言っておこうか。

そんなことが脳裏にちらつきながら、「おれが公園に連れて行こうか?」こんな言葉が口をついて出てくる。じゃあそうしてくれる、私洗濯干したいから、と言われたらどうしようか。言ったそばから後悔する。そんなことになったら、インスピレーションは永遠に帰ってこない。noteは公開できない。阿保みたいな矛盾に逡巡する。もう本末転倒である。

そんな死にそうな顔してる人が無理しなくてよい、ということを妻は告げて、支度を再開した。

少々気まずい空気のなか、スマホを手にとり、戻る。着替えるよ、とか、滑り台やろう、とか、母が子らに声を掛けるのが聞こえる。しかし子どもらは一生懸命、積み木やらなんやらに勤しんでいる音が聞こえる。五分、十分と、時が経過していく。

ガチャリと音がして、扉が開く。頭上から次の託宣が告げられた。「どうしよう。あの子たち、外に出ようとしない」

やはりか。

なんとなく、そうなるような気がしていたんだ。

それからいくつかの言葉が交わされて、いま子どもたちの声は玄関まで遠のいた。そうこうして、ようやくあの子たちが出る気になった頃には、妻はすでにちょっと疲れている。ごめんね、と、思いながら、私はこうして文字を打ち込み続けている。

部屋に静寂が訪れて、ようやく元々書きたかったことに戻ることができる。

それにしても、松岡正剛って本当に天才だなと思う。こんな人は二人としていないよなぁと思うと、井筒俊彦の名前が浮かんだ。兵頭二十八の名前も浮かぶ。吉本隆明はどうか。ううむ、世界は天才に満ちている。そもそも、いま手にしているこの分厚い本が、古今東西の142人の天才についての書なのだ。

数多くの天才がいるだけでなく、彼らとともに仕事をしたであろう編集者や校正者、また彼らを支えた家族たちのことを思う。その仕事に脱帽する。

意識とは何か。物質とは何か。時間とは何か。そんな疑問を辿っていたら、急転直下で松岡正剛にたどり着いた。いま目の前にあるこの書と格闘せずして、きっと前には進めないのだろう、と、直観する。

正しく疑問を抱えることが、唯一の正解への道なんだとは押井守監督の言葉だ。引用かもしれないけど。それはまあ、どちらでもよい。おそらくこの命題は、真なのだ。

それにしても、新曲「抜けてるお父さん」の完成の日は、いつになったらやってくるのか。インフルエンザのこともあり、対面するのをなんとなく避けていたり、出張したりなんだりドタバタやってたら、簡単に、一週間、二週間と経過する。そろそろまた、前に進めたい。進めたいのに、疲労してるし、松岡正剛読み始めるし、どうもやりたいことととやっていることが、支離滅裂なところがある。

困ったものである。そんな土曜の午前を過ごしていて、もう少しで正午だ。お昼ご飯はどうするのだろう。腹が減ってきた。

(ようへい)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?