子どもみたいな大人がカッコいい

ふと、幼い子どもは、言葉と現実が一致している、という発見をしたのでした。もう少しで2歳になる次女が「いーよー」「あったー!」「あーたんも、ほちい!」と、少しずつ言葉を話し始めているのです。犬を見ればワンワン!と叫び、猫を指差してはにゃあにゃあ!と喜ぶ。言葉と現実の間に、まったくもって、解離というものがないのです。

これを単純に、子どもは正直だね、という話で終わらせると、少々違う気がしています。嘘や誤魔化しという概念がないわけでは、ありません。怒られそうなことがあったら、かなりの確率で、目をそらせたり、おどけてみせたり、こぼした牛乳を一生懸命手でのばしたりする。

嘘がないから正直で、だから言葉が現実と一致している、というわけではなく、きっと、言葉がまだ自我から分離していないから、目にしたものや心の中に浮かんだことが、そのまま出てしまう、そういうことではないだろうか?と、思うのです。

視覚から刺激を受ける。心の中に欲求が湧く。大人はそれがいきなり発話につながるわけではない。それを言葉にした自分を、状況を、シミュレートする。そのうえで、意図が達成されるかどうかを検証する。しかるのちに、TPOに合わせた言葉に変換して、意思表示をする。

こうだったかもしれない未来、という仮想現実と、芯の方にある自分、これが十分に分離してはじめて、そうした芸当が可能になるわけです。

まあ、やり過ぎると、腹黒いとか言われますが。

かたや幼い子どもの発話は現実とあまりに直結していて、意思が通らない時は、「泣く」という実にシンプルな反応をします。なんとわがままな存在か、と、大人からすると思うわけですが、もしかしたらあれは、学習という行為のあらわれなのかもしれない。

ちょっと話は脱線しますが、痛い、とかしんどい、とか、美味しい、とか身体的な感覚を感じる実体って、どこにあるのかなと思うのです。脳内物質の分泌とか、ニューロンの発火とか、物理現象として還元されるなにかはあるんでしょうけらど、そういうことじゃなくて。その感覚をわが身に受け取る実体とはなんぞや、という話です。もちろん、心が受け止めているわけですが。その心って、物質に還元できるのかしら?という。

幼い子どもを見ていると、色々なものが分離されていなくて、だからこその自然なありようがそこにあるのだな、と、気づかされます。好きなことは、好き。楽しいことは、楽しい。イヤなことは、イヤ。思春期を越え、社会にも出て、様々な理性を身につけてきた大人が、いま一度、そんな心の自然な動きにシンクロできたら、思わぬ力が発揮できるのかもしれません。あるがままの心で生きられぬ弱さとは、知らぬ間に築いてた「自分らしさの檻」によって育まれるもの。檻をぶっ壊すというとパンクな感じがしますが、より自在に、自他を調和させつつ、リビドオの発露をためらわない、そんな大人が、カッコイイんじゃないかと思うわけです。

(ようへい)

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