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評 論

音楽評論家という人がいたとする。   

1961年生まれの僕にしてみれば、ポピュラー音楽の中村とうようとか、別してジャズ評論家の油井正一とか、クラシック音楽だと吉田秀和が大御所だったとか。サティを日本に紹介した秋山邦晴とか。

マスディアを通じて、市井の僕らが知る主たるところは、文字通り「彼らの評であり、論の部分」。彼らの「暮らし」、どんなファッションが好みで、どんなところでくつろぎ、何を食べているのかは、雑誌やテレビ番組の小さなインタビューから、うかがい知るばかり、ほとんど知らないし、興味もなかったんだろうな。

でもね。その人が、その人の生活文化から切り離したところで音楽だけを評論してもね。それ、なんだか歪だ。「評論」は、マニュアルを憶えて慣れる仕事じゃないから、その人の生活文化から湧いて出るものじゃないとおかしい。ここからが就業時間、ここからここがアフター5と分けられる仕事でもないから余計にそうだ。

「全身小説家」「全身落語家」「全身〇〇家」という言葉が汎用され始めたのはいつのことからだろう。たぶん「その人の生活文化から切り離したところで音楽だけを評論してもね」に対する疑問が、少しずつ明確になってきたことと歩調を合わせてのことだと思う。

(ホントに世の中にはON/OFFにはっきりセパレートになっている生活では追いつかない仕事がある)

たぶん音楽評論もそう。ラーメン評論家だってラーメンばっかり1万杯食う経験をする前に「美味しい」を理解するのにだって相応に時間がかかる。専門は「戦後歌謡」だとしても、それを評論するためには比較対象としての「クラシック音楽」にだって素養を持たなければならない。

一生かけたって終わるかどうか。
そういう感じが本当だったんだと思う。

でも、僕ら「情報弱者」だった。

「評論」って、「仕事」特に「賃金労働」ではなく、その人の一生を賭けた生活文化そのものを世に問うことなんでしょう。そうじゃないと、お客さんが納得するものじゃなかった。

そして、今

今はSNSがある。何を食べ、どんなものを着て、どんな暮らしをしているんか。世相に対してごんな考え方をするのか。市井の庶民だって、自らの生活文化を発信する時代。そうしたスタンダードになりつつある。
Googleが銀行業に進出したら、不動産が全く「不動」にならない今、こうしたSNSの発信が「担保」になるのではないかとさえいわれている。

工業生産時代は、自分の受け持ち範囲のことだけを考え、それで「専門は」などと嘯くことが可能だった。でも、知価生産時代に入れば、豊かで広範な教養の上に乗った「専門」でないと通用しなくなる。

なにしろ掌中にはスマホがあり、なんでも教えてくれる検索エンジンがあり、チャットGPTだってある。

データだけだったら、人間は彼らに勝てないんだ。

「評論」は「生き様」で問われる。