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majority

たぶんね。「総中流」の「総」の部分。「総」っていっても、労働者階級のそれなんだけど、これが二つに別れてくる。いわゆる「二極化」は、主に経済的な観点においてのそれだけど、僕が二つに分かれると思っているのは、ライフコンセプトや生き方、価値観においての「それ」。

ひとつは支配されていようがいまいが、そんなことどうでもいいから、選択肢が与えられるまで待っている人たち。

(与えられた選択肢に興味がなければ、選択を放棄する。「投票率の低さ」に象徴されるように。でも、魅力的な選択肢がないからといって、それを創ろうという気にはならないらしい)

自分で歩いて好みの珈琲を見つけるより、スタバとかドトールとか、マジョリティに支持されるブランドを選択肢にする。

「自分で歩いて好みの珈琲を見つける」だって「既存の選択肢」を「選ぶ」なんだけど、自分で歩いて「好みじゃないかもしれない珈琲」を出す可能性があるお店に入るというリスクは犯すぶんだけ、自分で選択肢をメイキングしていることになる。だから、雑誌やムック本に頼ったら「選択肢をメイキング」の部分は半減以下。「孤独のグルメ」の井の頭五郎さんのように、自分の経験とカンに頼らないと。

(というわけで、選択肢が与えられるまで待っている人たちは、与えられた選択肢の中にしか「美味しい」はないと思い込んでいうるので、自分がホントに「美味しい」と思うものには、実は辿りつかない。与えられた選択肢を「ああ、これが美味しいなのか」って信じ込まされてるだけだから)

「投票」も、選択にリスクがともなうところは似ている。みんな選択のためにわざわざ勉強するのは嫌いだから、「よくわからない」という障壁を取り払うことができない。だから行かなくても、法的な罪にはならないから行かないというのが、マジョリティの選択。それが、どんなに自分の人生を意左右することだって、当面の支障がない限りは放置。放置という選択をする。だから低投票率で、自民党や公明党さんのように「選択肢」を与え、それに順応する集団を確保できるところの天下は、なかなか揺るがない。

つまり、選択肢が与えられるまで待つ人たちは、与えられた「選択肢」を「選ぶ」が「自分らしさ」になる。そして選んだ「選択肢」はことごとく消費する(飽きる)。あんなに街中を席巻していた「アナ雪」が、今はどこにもない感じ…「鬼滅」もそうだ。「タピオカ」だってそう。「川越」もそう、なんでも消費していく。

で。消費したら、待つとはなしに「次の選択肢」を待つ。自分で創ろうとはしない。

次の選択肢は企業や政府が供給する。テレビや雑誌などを通じて配信される。イマドキはSNSからの配信もある。古くは「今年の流行色」みたいな感じ。

でも、こういう感じがマジョリティ(多数)を占める。世紀分布的にいえば65〜70%。

だから、ここを「どう躾ちゃうか」なんだろうな、国家って。「国民性」なんていうのもこのあたりを眺めて語られるんだろう。

でもね。工業生産時代が終わって集団生産の時代も終わると「躾けた民」だけでは、必要な生産性が確保できなくなってきた。供給すべき選択肢だって「テレビ/冷蔵庫/洗濯機」では済まなくなってきた。「聞き分けのいい子」が、優秀な複写機として、あるいは工場の部品となって「無」になって働くだけでは世界に置いていかれるようになった。

ただ「いい子」にしていれば済む時代が長すぎた。前の戦前・戦争中からだから、少なくとも80年以上。急に「それじゃダメだ」っていわれても急にアジャストはできない。…そりゃそうだ。しかもマジョリティ(多数)は選択肢を自分で創ろうとしないし、実際に創ることができない。できて「既存のもの」を組み合わせてみるまでだ。

どうする、この国。

今のところ。答えはblowin' in the windな感じ。
もう崖っぷちなんだけどね。