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教育の賜物

百花繚乱といっていいほど、本来は個性豊かなはずの「個人」を学校教育の過程で「粒ぞろい」な感じに剪定してしまう。そして、膨大な「フツウ」という人たちをつくり出す…そのことについて気持ち悪いとか間違っているとか思わず、むしろ当然だ、「みんな」で生産力を向上させるんだと思っているのが、富国強兵な明治の頃からの、集団生産な工業生産時代の、この国。

だから、その時代に教育を受けてきちゃった世代には、依然として自分が「フツウ」にデザインされちゃった後(の自分)だということが、明確に意識できない場合が多い。

当然だ。だって、教育を受けたと思っているのだから。

「教育」と称して、言語を理解して、工業生産な労働に従事できるように「訓練」する場だったから。

一方

好きな色とか、海岸の風が好きとか、そういうところになると、論理的な説明ができず、感嘆詞を連発するにとどまるっていうか、うまく説明できないという人が多い(学校の勉強がよくできた人ほどそう)。

僕らに施されて来た教育は「左脳」系過多。僕らの左脳系能力を肥大化させ右脳的な感性を貧弱なままに閉じ込めておく。それでも工業生産な労働に従事するなら支障がない。だから、布地の手触りみたいなことになると自分なりの感想しか述べられなくなる…みたいな。

で、直感みたいなものはかえって鈍る。
息子の声が聞き分けられなかったりね。

左脳的だけ肥大にし、ずいぶん年齢を重ねても右脳が未成熟な僕ら。
でも工業生産時代に、国力を高めるためには、為政者にはそういう感じが便利だった。市井も、偉い人の判断だから、黙って従ってきた。

でもね。だから

ポスト・トゥルースな政治家たちや、その黒幕に、扇動的にもまんまとやられてしまうということもある。

まずいと思うけれど、つい昨日までは工業生産時代であり、そうした時代に即した教育を受けて僕らは育ってきたし、違和感なく生きてきた。だから、翻弄されるのは宿痾みたいな

何れにせよ、急激に、劇的に、知価生産時代に移行するなって、多くの人がそんなこと思ってもみなかった。

だけど、

現実は、今日、僕らの知るとおり。

安倍さんは、成長を促すんじゃなくて、自立しなきゃいけない子どもに「こずかい」を与え続けた毒親みたいなもんだったから。

「覚悟しいや」なんだろうな、ホントに。