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「選択肢」が与えられるまで待つ

よほどの変わり者でない限り、僕らは「選択肢」が与えられるまで待っている。よほど面倒なのか、自分で「選択肢」を創りだそうとする者は滅多に現れない。

しかも選択肢を選んだ後は、その選択肢をひたすら消費する。「消費者」といわれる所以だか、選択を投資として次に活かすということも滅多にしない。そして、また次の「選択肢」を要求する。その選択肢を得るために金を稼ぐ。

僕が大学生の頃だったか、ハーゲンダッツを買うのに行列ができて話題になった。いっとき「ハーゲンダッツ」はそういう「選択肢」だったんだ。僕らはずっとそんなことを繰り返している。今は「タピオカ」が同じ道を歩み、「鬼滅の刃」関連グッズの投げ売りも姿を消した。

進学も「選択肢」から始まる。内容は問わない。「普通科」なんていう選択肢は、内容が問われないいい証拠だ。

ふつう【普通】
いつ、どこにでもあるような、ありふれたものであること。他と特に異なる性質を持ってはいないさま。

「選択肢」として重宝されるのは「ブランドとしての高校名」だ。大学も同様。僕が現役の頃は「潰しが効くから法学部」という言い方もあった。実に失礼な話だが、とにかく内容は二の次だ。問題は「大学名」だ。東大でなければ、早慶か上智か、関東の場合、そこまでとどかなかったらMARCHなのか。大学ならいいというならFランクのそれか。
学科の内容や、教授の研究実績、教え方にも拘らない。入学してからも研究ではなく、高校までの中間・期末を乗り切る感じで4年間を過ごす。だから卒論のテーマがライフワークになるなんてこともない。数年すれば忘れてしまう。

そういう人たちによって創られてきたのが、今のこの国だ。
深く考えない。困れば「選択肢」を探す。

で。消費する。消費しちゃうんだから後には何も残らない。

だから世間全体をして「誘導」にも引っかかりやすい。いつまでたっても、あまり賢くもならない。戦時中の「進め!一億火の玉だ」から「一億総中流」で「一億総活躍社会」だ。

「選択肢」として興味がないもの、選択が面倒なものについては「無視」を決め込む。ことさらの勉強が必要なものについても「無視」だ。誰かが決めてくれるまで、首をすくめて待つ。投票率は低く、与党は信用を失っても与党だ。

「選択肢」が与えられるまで待って「選択」する。そのどこが悪いという人もいるかもしれない。もちろん、悪くはない。でも、自分で「選択肢」を創ることができなければ「選択肢」を創ることができる人に、自分を支配されることになる。

与えてくれて「無償」っていうことは、まずないからね。

で、選択肢を創ることができる人は、自己都合で、ある日「終身雇用」を止めて「ジョブ型」の就業に切り替えてきたりする。こちらの準備の状況などお構いなしに。

今は、長い間、安定した状況が続くような世の中ではない。猫の目な変動下にある、不確実性の時代だ。

選択肢を創る人だって、実はオロオロしている。子どもたちを、次の時代にも適応できる人材へと「プログラミング教育」を導入しようとしても、学校の現場で、それを教えることができる教師の数が圧倒的に不足している。

それなのに、たいていの僕らは待っている。

だいたい、なぜ「プログラミング教育」が必要なのか、ちゃんと説明できる親御さんも、ほとんどいない。勉強は学校を卒業すれば終わりと思っているからだ。

知らず知らずのうちに、僕らは根っからの「指示待ち」だ。選択肢が与えられる前に状況に不都合が生じても「聞いてないよ」というだけだ。自分じゃ行動に起こせない。指示を出さない人の責任になる。

でも

勉強せずに選択肢を待ち、興味のあるものをチョイスしては消費していく。チョイスが投資にはならない。いつまでたっても賢くはなれない。

このライフスタイル、そろそろ限界に近づいている。