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終わりは始まっている

植木等さんが「そのうちなんとかなるだろう」と歌ったのは1964(昭和39)年。前の東京オリンピックが開催された年だった。。東宝映画「ホラ吹き太閤記」の主題歌。曲名は「だまって俺について来い」だった。

2023年、そんなこと言われても無理というのが時代の気分だろう。

あの頃は高度成長期。1955(昭和30)年から1973(昭和48)年までの18年間、日本の実質経済成長率は年平均で10%以上。確かに「そのうちなんとかなった」のだろうし、当時は工業生産なマニュアル・レーバー全盛の時代、多少の疑問はあっても「だまって、ついてゆく」が正解だった。

で。ついていったら、80年代末には、あの「バブル景気」。

そうした成功体験を重ねながら、若手社員は中堅からベテランへと成長していく。折しも、多様性よりも、大量生産・大量消費を可能にする「画一化」の時代。「例外」については「排除」以外の選択肢を思い浮かべることができないベテラン社員が大量生産されていった。

あゝ。

政府でさえ、何をどう準備したらいいのか的確な施策が打ち出せない中、AIによる無人化、労働市場の国際化が人々からマニュアル・レーバーを奪っていく。それが今日。「前例」「マニュアル」「入門書」から解決策を探すのではなく、それぞれが創造的に「おまんまを食う」方法を模索していかなければならない。人生の「これから」を指し示していた「点線」は、すでに消えかかっている。

見本なんてない。それなのに、マニュアル・レーバー時代に長い人は、すでに通用しない過去や近・過去の事例に自らの未来を当てはめて考えてしまうし、リスクヘッジからの就業が習い性になっているので「まずはリスクを避ける」から、自分の将来を設計しようとする。

でもね。

不確実性の時代になると「まずはリスクを避ける」から考えはじめてしまうと、一歩も動けなくなり、結局、自滅してしまうのだけれど、「一億総中流」に参加すれば食っていける時代の直後ですから「まずはリスク」が怖くてしょうがない。そして躊躇しているうちに、追い詰められる…

たぶん、間に合わない。政府は「ネオ高度成長期」だ。オリンピックに費やされる膨大な国費をもってしても「マニュアル・レーバーの次を設計できない人々の現状」を変えることはできず、ただただ企業を太らせ、自主的に知価(情報)生産時代に適応できた人々と、そうでなかった人の明暗をさらにはっきりさせるだけ。

万博も同じ。だって今は1970年ではないから。

かつて政府は「一億総活躍社会」と言っていたけれど、マニュアル・レーバーにしか順応できない人に活躍の場をつくったら、国際的な競争からは落伍してしまうのが現状。そもそも「一億」は「進め一億火の玉だ」「一億総中流」など、個別な違いを無視して国民を「みんな」に染め上げてしまう時代を象徴する言葉。知価生産時代に背を向けた言葉だ。

時代は非情。

「会社」というものが、案外、分厚いシールドだったこと、マニュアル・レーバーほど気楽に収入を得ていける方法はなかったんだ…ということを、まず思い知らされる…

そうした感じが、多くの人々にとっての「これから」なんだろう。