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夢違之地蔵

東京都墨田区菊川三丁目、菊川橋西詰にの墨田区立「菊川橋児童遊園」がある。目立たぬ、小さな児童公園だ。

その一角に「夢違之地蔵」というお地蔵さんが安置されている。「夢違」というのは「この惨状がただの悪夢であり、目が覚めれば夢として消え去ってほしい」という市井の願文によるもの。
「夢違」は、たいてい「夢違観音」というように「観音様」に冠されているものだけれど、少なくはなかった子どもたちのために、「子どもの守り神」ともされるお地蔵さんがこの場にはふさわしいいと、「夢違之地蔵」ということになったという。

建立されたのは1983(昭和53)年。誰も忘れていなかったんだろう。ご近所の有志の方によって建立されたこのお地蔵さんの祠の傍には、下記のような詞書がある。

この地蔵尊の在わします菊川橋周辺の惨禍は、東京大空襲を語るとき後世まで残るもので霊地として守らねばならない聖域である。 

写真の菊川橋の上だけで、昭和20(1945)年3月10日の、いわゆる東京大空襲(下町大空襲)の一晩で、およそ3000名の方が亡くなった。
川に飛び込んでから亡くなった方も少なくない。今も、周囲の公園の整備事業では、仮埋葬者の遺骨の一部が発掘される。

広島に投下された原子爆弾の犠牲者は、昭和20年末までに14万人程、長崎の犠牲者は7万人以上。下町大空襲の犠牲者は一晩で10万人以上。そして、広島でも長崎でもそうだったように、下町大空襲は、たくさんの「戦災孤児」を生み、子どもたちには、戦後も続く、いわれなき被害、遺恨を残した。

子どもは「戦争」を起こせない、起こさない、政府と共犯関係にもなれない。でも、一生を奪われる場合もある。

高齢化の波に揉まれながら、今も、3月10日には、夢違之地蔵講と菊川三丁目会の主催で、関東大震災における犠牲者の方も含めて遭難者への法要が行われる。

(近隣にはいくつか同様のお地蔵さんが建立されていて、やはり、それぞれの町内会で法要が行われるのが恒例だ)

このあたりでは2月の中旬頃から、あちこちの町内会掲示板に「法要開催」を知らせる張り紙が目立つようになる。出入りの激しいヨコハマの下町と違って、焼け出されても、この街に戻ってきた方も少なくなかった。他の地域に転出された方も3月10日には、ここに帰ってくる。だから、記憶が継承されている。

でも、周辺にはマンションが目立ち始め、そうした記憶とは縁もゆかりもない若い世代が暮らし始めている。

80年にならんとする時間が経過して「これから」の継承は至難だろう。

空襲を経験された世代のみなさんより、現役世代の力量が試されているのかもしれない。