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美術

1873(明治6)年、皇帝フランツ・ヨゼフ一世の在位25周年を記念して開催された「ウィーン万博」。これは日本政府が初めて公式参加した万国博覧会だった。その出品作品の選定にあたって「ファインアート」の訳語として創案されたのが「美術」という言葉だ。

(「ファインアート」=多くの場合「純粋芸術」と訳される。「美しい以外にとくに役に立たない芸術」を指すとも)

音楽画学像ヲ作ルノ術詩学等ヲ美術ト云フ

当初、美術と音楽の分類はあいまいで、今では文学に位置付けられる表現も「美術」とされた。いずれにせよ、それ以前には無かった考え方なので、当時の日本に「欧米」風の「美術」があるわけがない。だから、ウィーン万博には、今では「工芸」や「技能職の手仕事」に分類される作品が出品された。

(「作庭」、つまり「庭」も出品された)

日本政府は「欧米風」でないことに不安だっかもしれないが、豈図らんや、これが大ウケした。欧州を中心に「ジャポニズム」という一大、日本ブームが起こった。ゴッホやモネ、ドガなど印象派の画家たちの多くが、この影響下にあり、ルイ・ヴィトンの「ダミエ」や「モノグラム」も、このときの日本展示の出品作品のデザインにインスパイアされてのもの。

まさに「ブーム」が起こった。

(ただし、それは「クラフト(手芸品/工芸品/民芸品)」としての評価で、純粋芸術としての評価ではなかったが)

でも「欧米化」に血道をあげていた明治政府は、欧米の文化に由来する「美術」こそ、オフィシャルなアートだと位置付け、学校教育でも、庶民にまで徹底して「美術」を吹き込んだ。伝統の文化は「迷信」のように扱われ、政府は「(既存の日本文化を)好ましからざるもの」という姿勢を鮮明にしていた。鹿鳴館に代表されるように、華族や官僚の家族にも、これを奨励していった。

岩倉具視らは欧州での評判を下に「日本性」への回帰を目論んだが、欧州の出来事を知らない連中は、これを、東京遷都以降衰退した「京都」の復興計画に矮小化した。ただ、欧化推進派も維新の立役者である岩倉具視を完全に断ち切ることはできなかった。

そういうわけで

今でも「洋画」と「日本画」は別立てに、微妙に「洋画優位」で並列する(絵画は絵画なのに)。東京藝大でも、彫金、鍛金、鋳金、漆芸、陶芸、染色などは「工芸科」として別立てだ。でも、工芸分野の公募展などを観にゆくと、ほとんどコンセプチャル・アートの域の「作品」で、少なくとも道具的ではない作品も多い。題名も「卓上からこぼれる一点」だったりする。

アラーキーは千葉大学写真印刷学科の出身だけど、彼を「写真技師」だと思う人はいないだろう。

でもね。美術と工芸とは分たれている。市井でもそうだ。

たぶんね。

この国の「公」とされる政府か、それに準ずる機関が、それを「美術」と認めるか否かなんだろうな。認めれば「美術」。そうでなければ「美術」ではない。明治期、すでに「欧化」で突っ走り始めていた為政者と、欧州での評判から「日本回帰」をはかった為政者との主導権争いの果てだったともいえるのかな。で。「日本回帰」派が負けた。しかも「欧化」推進派が学校教育を握っていたから、僕らも欧米の表現活動の結果こそが「先端」「ホンモノ」と吹き込まれて育つ。

(中学校たりの美術の教科書を思い出してみるといい)

だから、岸田劉生は美術の画家。葛飾北斎は街場の絵師。そういうイメージが定着した。学校では欧米の美術を「美術」だと教えるわけだから。

(世界的な評価は北斎の方が一枚も二枚も上なんだけど)

こういう側面もある。

クラシック音楽は「鎮座して鑑賞」させていただくもの。演歌に「鑑賞する」は馴染まない。つまり美術は政府が下賜するもの。僕らの生活時間に馴染んでいるものではない。

「美術」は「公」のお世話で恵んでいただけもの。

いずれにしても「美術」は明治6年以降のもの。それまで、この国には「美術」はなかった。「神奈川沖浪裏」も「源氏物語絵巻」も美術作品として描かれたものではない。
だからキャリアが浅い。しかも、「これまで」を無視して外国を移入したものだ。導入も強引だった。市井にそのニーズもないのに、政府が押し付けたわけだからね。だから庶民感情と「美術」は今も遠いところにある。

いつまでもゴワゴワのジーンズみたいなものだ。

喫煙所になった「みなとみらい彫刻広場」
ニキ・ド・サンファルの作品が寂しそう。
相鉄本社脇に設置されたパブリックアート

縄文期以来の表現と、遅くとも中世以来、少しずつ市井にも浸透しきたアート。凶作や戦乱が続いた欧州に対して、わが国は少なくとも200年は早く市井を落ち着かせ、豊かな庶民文化を生み出した…それが北斎たちである。

でも、庶民であるが故に表現は「純粋芸術」より「クラフト(手芸品/工芸品/民芸品)」に結晶した。庶民は貴族ではないからね。

でも、これ。悪いことじゃないんじゃないかな。

だから、僕は、僕が大好きな作品たちが「美術」にカウントされなくてもいいと思っている。

政府筋の評価なんてどうでもいいと思ってる。