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コミュニティを超えて

いわゆる「イートイン」なんだろう。だだっ広いホールにテービル席が散っていて、周囲を飲食のテナントさんが囲んでいる…後学のためにと、きょうはそういう場所で奥さんとランチした。

お父さんはまばらだったが、ベビーカートのママさんたちは案外いらして、ご高齢のご夫婦とみられる二人連れの方もたくさんいらっしゃった。

(再開発地なので、周辺にはオフィスもたくさんあるはずだが、昨今の情勢を反映してか、会社員風の方はほとんど見かけなかった)

で。

天井は高い…その高い天井を眺めながらふと思った。

僕一人で、ここでゴハンだったら、空間負けしてずいぶん寂しい気分になってしまうだろうな、と。

体育館みたいな広さが仇となる感じ。

きょうの僕は話しをする相手がいて、この「空虚な空間」「注文以外、店とのコミュニケーションがない時間」を肴に、ここを自分の「場所」にすることができるかもしれないけれど、一人じゃそういうことに負けてしまう。

そうか…

広い大都会という「空間」に漂うデラシネたちが、それぞれに「場所」を見つけ、安住するために、馴染みのママやマスターがいるような、かつての駅前喫茶や駅前スナックは重要な役割を果たしていたのか

改めてそんなことを思った。

電車を降りて家路に着く前に、ふっと力を抜く…会社の垢を落とす。商店街のオヤジたちが愚痴をこぼす。カラオケで発散する。

見方を変えれば、故郷を後にした「よそ者」たちにとって、砂漠のような大都市を唯一「場所」化できるのが「駅前喫茶や駅前スナック」なのかもしれない。大げさにいえば、そこに馴染みのママやマスター、常連仲間たちがいるから、この東京砂漠にもなんとか耐えて生きていける。

「駅前喫茶や駅前スナック」は、そういう命の源なのかもしれない。

「内側にいる人には安心のゆりかごでも、外側にいる人には高い壁」というコミュニティの特性を超えて、「みんなで」の時代が終わりつつある時代の都市生活者に求められる「場所」をデザインすること…

コミュニティじゃなくて、出たり入ったりが自由でだから解釈自由。だからこその居心地を手に入れることができるHUBになれる場所。

そこはどんな場所? どんな店?

探り当てたいな。

急務だなぁと思う。