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さあ どうしよう。

今が1970年なら、たったの3年間で806万人も生まれた団塊の世代が20歳前後。彼らは集団生産な労働生産力で巨大な市場でもある。

大半が「モノによる豊かさ」に疑いを持たず、かつての中流型の消費行動の中に納まる…学校教育で「画一的な就労体制」になじませ、マスメディアから発信される情報で画一的な消費行動に誘導する。みんながミニスカートをはけば、私もミニスカートをはきたがり、ジーンズに長髪ならジーンズに長髪。若大将なら若大将…

その頃のこの国の未来は、少なくとも経済的にはバラ色だった。

1970年に小学生だった僕らも、みんなが「聖子ちゃんカット」にすれば、私も「聖子ちゃんカット」にしたがる。「個性」より「みんな」と一緒にいること。きのう観たテレビ番組の話に乗っていくことができなければ、添えだけで、クラスから浮き上がった。

「一億総中流」だから老若男女で「8時だよ、全員集合」を観たし、1970年の大阪万博には、183日間の会期で、約6、421人もの入場者があった。

でも、今は違うし、これからも違う。

まず、団塊の世代が慣れ親しんできた工業生産時代は終わり、つまり、画一的な訓練でみんなを食わせるというのも不可能。巨大なマス市場も溶けるように無くなっていっている。

(だから、紅白の視聴率が80.6%なんて時代があったなんて嘘だと思っちゃうんだ)

これからは「みんな」ではなく「個人」が単位だ。

「見よう見まね」も効かない。「憶えて慣れる」も効かない。求められるものは創造性で、評価は質的なものになる。

でもね。日々状況は悪くなっていっても、変化は読みにくい…対応は後手に回る。だって、竣工したばかりのマンションに半分しか居住者がいなくても、堅牢な建築物であるところの、そのマンションの外観から、そうした結果、状況を窺い知ることはできない。
会社についても、なんとなく嫌な予感はするけれど、いつもと変わらぬよう。リモートは増えたけど、とか。

(「円」への信頼感も、年長者こそ揺るがないんだろう)

インターネットがあって、スマホがあって、AIがあって、ロボットが居て、会社帰りに寄ったスーパーは無人レジ。ああそうだ。チャットGPTもある。

これで、世の中が変わらぬわけはない。

誰もが「うちの会社」といったような一体感も、すでに無くなって久しい。前の大戦の戦時体制が構築されて以降「一億、みんなで」でやってきた、この国の大変化が、すでに始まっている。

水に浮かべたコップ。水を注ぎ続ければ、ある時期には安定期に達し、それでも水を注ぎ続ければ、コップの中の水は縁に達し、静かに、でも、あっけなく、コップはポコんと音を立てて水中に没する。

変化とは。たいてい、こんな感じで起こる。しかも、今のこの国の場合、注がれる水の量は勢いは増し、コップは小さくなっている。

さぁ、どうしよう。
何があっても生きていかなければならない僕ら。