見出し画像

grassroots/déraciné

美大へ

そんなこと親に言えるはずもなかったが、軽音目当てで進学する高校を選んだ。強者が揃っていた。体育祭と文化祭で1週間を費やす学校だった。
その頃からキャバレー(当時)でバンドマンのバイトをし、ライブハウスで演奏し、クラブで弾き語りもしていた。
大学進学について強い希望ではなかったが、行きつけだった喫茶店の常連に「送り手」を育てる学科ができるというので、その学科に進学した。

(ステー上の人としては驚くような才能もなかったし、なんとなく、当時は「裏方」志向だったので)

美大だったが、その美大をよく理解していなかった。

要項には音楽系の教授の名前もあったし、サブカル系雑誌の編集長として憧れていた人もいたので、街の僕ががイメージする「プロデューサー」を育てる学科なのかなと、勝手にそう思っていた。

(つまり、僕は街場の「サブカル少年」だった。それ以上でもそれ以下でもなかった。知識はマスメディアから供給されるものの中で止まっていた)

でも、美大は未知との遭遇だった。

音楽系の教授は、日本にエリック・サティを紹介した人だったし、ジョン・ケージの「4分33秒」を鑑賞したりした。ちんぷんかんぷんだった。
一年をかけてマルシェル・デュシャンを勉強する講義もあった。写真も、僕には雑誌「GORO」なイメージしかなかったけど、立派な写真論だったし、マン・レイだった。ある写真家の教授は風景論を語った。
映画もエンタメな映画ではなく「構造主義的映画理論」やら何やら。演劇の特別講義では、4人のグループでエチュードをやらされた。ひたすら恥ずかしかった。
もちろん美大なんだから美術的な講義もたくさんあった。たいていが描くだけでなく考えさせられた。ある「もの派」の巨匠からは、夏休みに短編でいいから小説を書いてこいという宿題が出た。何しろ入学して最初の講義が、購買部で一塊の「油粘土」を買って来させられて、「油土(美大では油粘土のことをこういう)を油土らしく表現せよ」だ。黒板にそう書いて、先生はどこかに消えた。そういう講義ばっかりだった。

「言われることを正確に複写」といった感じの講義はひとつもなかった。

ただ、情報量があまりに多くて消化できずにいた。なんだかわからないでいた。「サブカル少年」から脱皮できずにいた。


撮影所

大学の3年生のとき、「ぴあ(当時)」に載っていた、小さな募集広告をみつけて映画の撮影所のバイトに入った。形式的には「企画部研修生」という雑用係だったけれど、これはこれで、多くの「未体験」には恵まれた。

ただ、混乱は深まってしまった。

大学を卒業しても、そのまま撮影所は続けたが、この頃が混乱の極みだった。サブカル好き、アート好きだけじゃ喰ってはいけないことに絶望していた。初めて「フツウ」の人に対峙し、消費材としてのエンターテイメントに対峙していたんだと思う。撮影所の人間関係にも苦手意識を持っていた。

(あの頃は、国内でマス・メディアを経由してマス市場で売り上げを上げるしかなかったから)

いつ辞めようかと思っていた。作品からもモチベーションを得ることができなかった。でも、撮影所に入った時点で、美大の教授陣が用意してくれていたルートからは外れてしまった。辞めても行くあてがなかった。でも、もう学生でもなかった。

役所

ある日。軽音部の後輩から、とある市立の小ホールを春のコンサートで借りようと思ったら、今年に限って、ドラムはいいがベースは電気楽器だからダメだといわれたと、相談を受けた。

それが役所との「交渉」の始まりだった。

「交渉」しながら、お役人と仲良くなった。溜まり場にしていた喫茶&スナックの常連に、彼らと親しい人もいた。当時の役所は文化系なら文化系で、ほとんど異動しない「主」みたいな職員と、彼らのネットワークがあって、業務時間に関係なく仲間の事業を手伝いにゆくような関係があった。
そのあたりに「(有り体にいえば)顔が売れ」て、ボランティアでイベントを手伝ったり、出版物の編集やデザインを手伝うようになり、さらには、それらが有償の仕事になっていった。
一方で、彼らの代弁者として「〇〇検討委員」を歴任した。この頃から「検討調査」を受注するようにもなった(これも真の役割は「彼らの代弁者」だったけど)。

これじゃあ、岡っ引きっていうか、お役人の犬だな。そう思っていた。でも、いつの間にかそうなっていた。

しかも公共政策については素人も同然、専門家のサポートも受けたが、それでも簡単な言葉さえわからなかった。繰り返すが、僕は美大出だ。
だから、報告会と報告書は、いつもヒヤヒヤだった。生きた心地がしなかったと行ってもいい。でも、この頃になると、会社も創業していたし、もうカネに縛られていた。

アラフォーになった頃、アートやデザインをテーマにした再開発地区の事業計画を専門家軍団と仕上げる仕事にありついて、その計画を書き上げると、その事業のコーディネーターになった。

本来なら「願ってもない」と万々歳なはずだったが、もうストレス大魔神だった。かの岡本太郎氏は「芸術は爆発だ」とのたまわったが、僕の場合はストレスがそういう状況にあった。

過食で体重は100kgにならんとしていた(今は男性もののSサイズ)。タバコに酒で、つまり重度の糖尿病で高血圧。それでも仕事を変わってもらうわけにはいかなかったから、休まなかった。休むのが怖かったのかもしれない。

そして、49歳のとき脳出血で倒れた。

助かったが右半身に麻痺は残った。目覚めると右半身の感覚は全くなく、最初は、うちの奥さんが右側に回ると奥さんが消えた。今も複視というモノが二重に見える後遺症を抱えている。右手は上手く動かせないし、痺れっぱなし手で絵を描くこともできない(IllustratorやPhotoshopは使えるけれど)。写真はコンデジで左手一本撮り。フィルムを装填するようなことはできないし、両手でカメラを構えることもできない。楽器も無理。必要があればDTMに頼っている。

公共政策学

倒れて、再開発事業のコーディネーター以外の仕事を降りて、電話もダメだということにして(実際、電話をとるとメモが取れないという事情はあった=当時)飲み会にも誘われなくなったから、時間ができて公共政策学で大学院に進学した。「いつもヒヤヒヤだった」を解消するためである。

役所とつきあって30年。「なんで?」という疑問も山積していた。

大学院では、まさに師匠に恵まれた。有難いことに、今もツイッター(X)で繋がっていて、毎日のようにやりとりをしている。

問題解決のヒントをたくさんもらった。師匠以外の教授の講義においても、受講することによって、自分が間違っていないということを確信することもできた。

今の役所は、商店街の振興施策の担当が商店街で買い物したことがない(つまり、現場に行ったことがない)。そんな彼に、彼の上席は「丸投げ」という感じがスタンダードだ。だって、担当者も彼の上席も数年経ったら異動はだ。自治体には、文科だ、国交だという仕切りもないから、どこにいくかわからない。前の大阪万博の頃ならいざ知らず、この難局に、職員に専門性はそだたない。たいていは面倒臭いことほど置き去りで、異動になれば前任がどんな問題を放置していってるかのロシアン・ルーレットだ。

そういう彼らでもデザインされた組織に編成すればなんとかなるなら別だけれど、そのデザインの、つまり組織力の限界を超えて、いつでもダッチロールなのが、この国の役所だ。

大学院に進学して、やっぱりこういうのって異常だよねと思うようになった。放置しておけば、この国を屋台骨から揺るがしかねない。そう思うようになった。

でもね。昭和の高度成長期って、よっぽど儲かったんだろう(だから特殊詐欺がスポットでは終わらないんだと思うけど)。市井の「みんな」は役所に無関心だ。ザルで水をすくっているような施策ばかり打つのに「まぁあいいや。私の生活に危機感なし」と、今でもマジョリティは無関心のままだった。もう、虫歯になぞらえれば、状況は「歯髄炎」なんだけど。

公共政策学で大学院に進学して、僕の気持ちと役所のあり方には決定的に溝ができてしまった。離婚だなと思った。

私立の公共政策

役所に提言を書いても無視されるし、首長さんや議員さんたちはチンプンカンプン。市井の「みんな」は無関心で丸投げ。誰に言っても暖簾に腕押し。

(とっくにタイタニック号は氷山にぶつかった後なのに)

というわけで、これは自分でやるしかない。今は全国に7,300軒以上あるとされる「子ども食堂」の大半が「私立」であるように。

アート&デザインは30年近く取り組んできた海辺の街を中心に。この街には今はまだ「器」しかないから。そこに料理を乗せる。出会いと出会いによるchemistryに恵まれるような「街」を。

でも、面的な「まちづくり」はしないよ。求心力がある「点」をつくって共鳴と共振を待つ。今は小さな事業とSNSから始めている。

それにね。どうもハイカルチャーなアートは性に合わないらしい。
オヤジ系は分家したのが「暴れん坊将軍」の頃。以来、ずっと東京の下町だし、オフクロの方も、歴史の浅いヨコハマで、港近くに150年近く。どちらも小商と職人の家だ。もうハビトゥス (habitus)からしてロウカルチャーなんだろう。

こういうところにも素直にやっていきたい。
なにごとも、向上心は維持しつつ、等身大に無理せずだ。

それと

街暮らしは気に入っているが(街暮らししか知らないとも言える)、買い食い頼りは卒業したいので「農業」ではなく、自給のための「農」と暮らせるように(こちらはご近所さんとの縁を大切に)。そのために郊外に引っ越してきて、小規模でも連作が効く「畑」を実験中。

いずれにしても「私立」だ。

政府(government)に非の打ち所がないないなら
非政府組織(NGO=nongovernmental organization)が生まれることはないだろう。

僕は街の子だから、街版のNGOを目指す。この国には見当たらないから。でもね。大組織は嫌だな。零細企業がいい。
それから理屈ばっかりも嫌だ。実際の暮らしぶりを提案したい。

切り返すけれど、もう還暦すぎなんだから「等身大」でいいだろうとも思う。繰り返しになるけれど「長いものに巻かれる」つもりもない。


シェルター

ただね。この乱世に奥さんのシェルターになるものに目鼻をつけてから死にたい。

アベノミクスがあって、今や「円」は、実勢1970年頃の実力に(僕が高校1年生だった70年代中頃でも1ドルは300円前後だったかな)。それなのに、長いこと、この国の食料自給率は40%に届かず、エレルギー自給率は10%程度。その上でウクライナでは戦争だ。仮に戦争が早期に解決しても、畑の地雷を除去するのに30年はかかると言われている。高度成長期に整備された多くの生活インフラも老朽化。これらを更新するにも膨大なお金がかかる。

だから、この国に、当分、生きていくのなら「自衛」手段を持っていなければ。食料を自給し、自前で下水を処理し、ゴミを処理する。

それに、僕自身がそうであるように「孤独」、歳老いた孤独たちが「孤高」を邪魔されず、困ったときに助け合える仕組みとHUBをつくりたい…ということ。今は構想を練っているところ。

死ぬまでには具体化したいと思っている。

(ホントは「一日も早く」なんだけど、こういうことって「急いては事を仕損じる」からね)

生きていくのが仕事だし、仕事が生きていくこと。楽しくないことは仕事にしてこなかったから。だからシェルターづくりも苦役じゃないよ。

それに

大都市だと簡単に野垂れ死できるからね。わが一族、何度もそういう修羅場を潜り抜けてきてるから、そういう記憶がね。散々聞かされてきてるから。

「仕事」といわれればこういう方向になる。

いずれにしても、いくら稼いでくるかってことより、どうやって、自分が生きていける仕組みをつくれるかどうかなんだ。

街場の小商な自営業はね。

晴れていれば畑を世話する。雨なら資料をあたって構想を練る。いい風が吹いている日は人に会う。

さあ、これからの都市をどう生きていこう。それが仕事だ。

この記事が参加している募集

自己紹介

仕事について話そう