見出し画像

溶けていく

クラウドに保存された情報は、どこに居たって衛星経由で取り出す事ができる。会議や打ち合わせも衛星経由。そして、これだけの宅配便網…そういう時代になると、情報生産に慣れている人は、ホントにどこにいても仕事ができる。夏は北海道にいて、冬になれば瀬戸内にいて、仕事が詰んでくれば東京に居っぱなしになるのかもしれない。

ウクライナにイーロンマスクさんが衛星を提供すれば情報封鎖も不可能。ウクアイナじゃなくても、すでに「国境」の意味は薄れ、国民国家の時代の終わりは始まっているんでしょう。だって、多国籍企業はどの国の企業だかわからないし、あっちこっちの国に生活拠点を持つ「お金持ち」はどこの国の人だかもわからない。犯罪だって、例えばアメリカに置いてあるサーバーから発信される、日本語オンリーのわいせつ動画は、どこの国で起こっている犯罪だかわからない。そして、仮想資産やポイント通貨が国家が発行する通貨の存在を脅かす時代。

「国家」という枠組みを「時代」が溶かしていっている…

これからは情報生産者が集まる「場所」。どこの「国」ではなく、個性に寛容で、彼らに居心地を提供できる「場所(居場所)」が隆盛になっていくのだと思う。

大都市だって、画一的な空間が続き、画一的な暮らし方を強制するような雰囲気があれば「生産性」として廃れてしまうのだろうし、逆に、在来交通機関の利便に乏しくても、個性に寛容ならば、豊かな自然環境とともに情報生産者を集め、隆盛になっていくのかもしれない。

多様性こそが都市隆盛の原点だといったジェイン・ジェイコブズさんは、魚市場の隣にミュージアムがあるような場所が好きだとおっしゃっていましたが、そういった多様性は都市にだけに成立するものではない。現に、webデザイナーやロースターさんやイタリアンのシェフさんなんかを集め始めている山村があり、シャッター通りになった清里の再活性化を目論みつつ、移住されたデザイナーさんもいる。

「多様性に寛容かどうか」がリトマス試験紙になるでしょう。「寛容」ならば、街は面白くなり、化学変化も起こりやすい。経済的にも栄えるのでしょう。

大量生産に従事する人たちを量として居住させ、彼らの消費力で食っていくような都市の時代はもうすぐ終わります。