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自分が犠牲になるのなら

自分が犠牲になっても誰かを守りたいと思うのなら、それはやめた方が良い。誰も犠牲になることなく守ることをしなければ自分ではない他人に犠牲になることを許してしまうのです。

自分は暴力反対だから暴力を使わずに説得しようとしています。でもこれも暴力です。説得せずに納得させれば良いのです。

権力は暴力です。

犠牲を説得することで強制する権利を権力だと私は思っています。

納得できないことを納得するまで説得するから暴力になるのです。
説明して納得できないのならばそれは説明不足なのか犠牲に感じる部分があるのかはっきりさせるべきです。

自分が我慢すれば良いのだからと思っているのならばそれはやめた方が良いのです。他人にも我慢することを勧めてしまうからです。自分の我慢と他人の我慢は違うのです。

我慢せずにできないことを認めましょう。できる方法を探しましょう。
運命だからと諦めることなく智慧を搾りましょう。

対価を与えましょう。犠牲にならないように、我慢させないように心の対価を与えましょう。自分が犠牲になることによって誰かが幸せになると思う事が心の対価であるのならばそれは犠牲ではなく慈愛です。

自分が我慢する事で相手の苦しみが安らぐのであればそれが自分の喜びになって返ってくると心の対価だと思うのならばそれは我慢ではなく愛です。

心は、物理的なものではありません。見えない、触れない、匂いもない。五感ではわからないのです。

愛や慈愛を求めてはいけません。
心を操作してはいけません。
心を利用してはいけません。

肉体を傷めるよりも罪が大きいのです。
天罰とは心に傷を負わせる事です。

思いやりとは心の会話です。