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損得と尊徳

損得勘定と尊徳感情はよく似ています。どちらも豊かになる事を目的に努力して勉強して目的意識が高いのです。

ではなぜ損得勘定より尊徳感情と言われるのでしょうか?

損得勘定とはこれを行えば損するか得するか勘定することです。勘定とは量を計算する事です。損得を量に置き換えないと計算はできません。金額と言う計算できる単位のものであれば良いのですが、人の命や感情、幸せなどを計算する為に金額に置き換えようとするのです。

損得勘定は計算できる単位に物事を置き換えてから判断するのです。その置き換える単位は人によって異なります。価値と言う単位に置き換えてから行動に移すのです。

尊徳感情とはどのような事を言うのでしょうか?「悟り」に似た事で、人を尊び徳を積む事が幸せだと思う気持ちです。尊徳と言えば二宮尊徳さんが思い浮かぶくらいの尊徳を実践した農学者で勤勉な人の代表として名前が知れ渡っています。

柴を担いで本を読む銅像は勤勉の象徴でした。貧乏な一家を支える為に朝は柴刈り昼は農業夜は草鞋作り、田植えをして余って捨てられた苗を拾ってきて川地の空き地に植えて1俵分のお米を収穫して、夜の勉強の為に自分で菜種を植えて油をとったそうです。

自分の環境を受け入れてそれならばこうしようと実践しているのです。

逆境に強いのは損得勘定をしないで自分のやれる事を瞬時に導き出して実践するのです。自分の為にとか、誰それのためにとか考えていません。

考える時間を与えないのです。つまり選択肢が無いから悩まないのです。

損得勘定は単位を揃えて計算して比較してから動くので検証が必要になるのです。尊徳感情は自分の内から出てくる人を尊ぶ徳を積むと言う普段の行いで咄嗟に出てくる行動です。

他からみれば行動する行為ですから同じように見えます。損得勘定をする人は行った後でも、損得勘定をして損した、得したと悩むのです。

損得勘定をする人は得することしかしないのです。尊徳感情で生きている人は悩まないのです。損得で動いていないから自由です。

普段から人を尊び徳を積んでいるから悩みません。自然に任せるしか無いのです。時間がくれば陽は昇り、沈んでいきます。雨が降れば傘を差し。力で抵抗すればさらに大きな力で襲われます。小さな力でも長い時間をかければ大きな力以上の働きをします。自然の美しさもいずれは変化して醜い姿になります。自然の力に逆らっていつまでも美しく保つのでは無く美しい今を美しいと感じましょう。

なぜ、怒るのでしょうか?美しいものが醜くなったと怒るのは自然の摂理を受け入れていないからです。歳をとり老人になり心が醜くなったとしても自然の摂理です。そのような環境で生活してきた結果です。

「わかったつもり」で生きている人と、「わかった」人の違いは損得で判断しない。「わかったつもり」の人は「わかる」事が得する事だと思うのです。「人は悩んで大きくなる」とか「小さい時の苦労は買ってでもしなさい」は損得勘定で捉えてはいけません。

尊徳感情で物事を行う人は説得力が不足しています。説得して人を動かすよりも自分が動いてしまうからです。また、尊徳感情で動く人は利用されがちです。損得勘定で動く人には尊徳感情で動く人は都合の良い人だからです。

損得勘定をする人は「悩み」ます。尊徳感情をする人は「悩み」ません。

尊徳感情の人は悩まずに体が動くのです。