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意識

意識する事の大切さについて考えてみました。意識しないとは無意識です。良い事が癖になれば考えなくても勝手に身体が働いてくれますから常に良い事ができます。人は修行や鍛錬をする事で良い事を見つけて訓練をしてそれが無意識に出るまで身につければ将来は楽ができると思い込んでいました。

良い行い、徳を積む事を無意識に出来るように精進すれば良い人生になると思い込んでいました。

そうでは無いようです。

何をするにもなぜそうするのか?今している事はどのような結果を生むのだろうかと意識して物事を行えば、うっかりやいつもと違う事にも対応できるようになります。

今行った事がどのような影響を与えてその結果どのようになるのかを意識して瞬時に理解できれば悩む事はありません。

無意識で、行った事は覚えていないのです。わかったつもりになって惰性で動いているのと同じです。坂道にきたり、分岐点で迷った時に無意識で動いていたら止まってしまいます。止まらずにそのまま動けば危険な目に遭うのです。

いつも同じであれば困る事はないのですが、変化に対応できない無意識になれている身体が悲鳴をあげるのです。

環境の変化が少ない今までと違って何があるかわからない時代になりました。その変化に対応できない子どもを育ててきたのは親の責任です。

その親もまた親の親も変化を望まないのです。変化に対応できないからです。変化を望まない事は構わないのですが変化に対応する事を教え忘れてはいけません。

変化に対応するとは無意識に行動せずに自分の意思で行動する事です。

自分の意思で自分を動かさずに誰かの指示で動くのは操作されているのです。指示を理解して動くのは自分の意思で動いているのです。

自分の意思が間違っているのに指示が間違っていると他人に責任転換してしまうのは、指示に従うという条件反射で動いているからです。

自分の意思を通すのは反発しているのでは無く、指示を理解できないからです。理解できる指示ならば受け入れる事ができるのです。

指示通りに動いたつもりでも間違った理解をしていれば間違った行動をしてしまいます。自分が発する指示でも理解してから行動しましょう。

無意識に行動するのが良い場合と悪い場合があれば無意識に行動してはいけないのです。自分の意思で行動すれば良くても悪くても自分に責任があるとわかるのです。

自分の意思で動きながら他人に責任を負わすのは間違っています。

善人は自分に間違いは無く他人が悪いと思うのです。
悪人は他人が間違っていなくて他人が悪いと思うのです。
仏の悪人は自分が間違っていて責任は自分にあると思うのです。
仏の善人は他人が間違っていても責任は自分にあると思うのです。

私は善人の悪人でしたが、仏の悪人の仏の善人になろうと思います。
死んだら極楽浄土にいけないかもしれませんが生きている間は極楽浄土です。

意識して動きましょう。