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「責任」について無駄に悩んでしまった話

自分のキーになっていた「社会人3年目」になる今、大学生活から社会人生活までを振り返って、「責任」について考えてみたお話。長いですが、結論はすごく陳腐です。ですが、自分の思考整理のために投稿してしまいます。お許しを。

大学生という不思議な時期

23歳で社会人になって2年が経とうとしています。大学生のときは、何も考えずに時には自分のため、時には社会のために、いろんなことをしてきました。地方の高校生の進路選択支援、某県の高校生のプロジェクトベースドラーニングのサポート、女性活躍推進を掲げる会社でのアルバイト、若手政治家の政治・選挙活動のお手伝い・・・。
人よりちょっと頭が良く、人よりもかなり慇懃無礼な私は、それぞれの場でいろいろなことを任せてもらい、たくさん失敗をさせてもらいました。本当に無責任にいろいろなことをさせてもらったものすごく貴重な時期だったし、もっともっといろんなことをしておけば良かったなあと思います。戻りたいと心の底から思うけど、でも本当に戻っちゃったらだめだと思う。そんな不思議な時期です。

「社会人2,3年目」みたいで凄い。

そんな不思議な時期には、いろいろな大人にお世話になり、いろいろな言葉を掛けてもらいましたが、私の評価としてよく掛けていただいた言葉は、こんな言葉でした。

「〇〇くんって社会人2,3年目って感じだよね。凄いね。」

褒めてるのか褒めてないのかよく分からない言葉ですが、とにかくこう言われることが多かったです。全く違う場所のそこそこ凄い大人たちから言われていたので、多分社会の大人たちからは、良い意味でも悪い意味でも、ある側面から見ると本当にそう見えていたのでしょう。

まあ確かに、社会人の真似事をさせてもらっていて「仕事」をしていたのを考えると、社会人的何かしらのスキルを社会人2,3年目レベルで身についていたのかもしれません。いろいろな人と関わらせていただいて、色々と勉強させてもらって、社会人2,3年目ぐらいの、ちょっと青臭い社会への自分なりの持論もあったかもしれません。

責任を持たない立場

でも、社会人に絶対に追いつけないところがあるなあとはずっと思っていました。「大学生は責任が取れない立場」だなあと。いや、この記述は不正確ですね。世の中には学生起業家とかベンチャー企業でバリバリやってる学生の方もたくさんいて、そういう方たちは責任を持って仕事をされているのでしょうから、「責任を取れない立場を自ら選んだ」と言う方が正確です。当時の大人たちがこのことを理由に私のことを「社会人2,3年目」と言ったのかは分かりませんが、とにかく課題認識はしていました。

(本当に無責任にやっていたと思われるのは嫌なので補足しておくと、気持ち的には責任感たっぷりでしたよ。社会的に責任を取れる立場を選択しなかったということです。)

勇気も甲斐性もない私は、責任を取れなくても社会が許される大学生という段階で、敢え責任を取る選択するはずもなく、大学生の間はずっと、責任を取らない立場を選択していました。それが楽しくもありました。そういう立場だからこそ得られたものもたくさんありました。

ちょっとした違和感

でも、心のどこかでずっと引っかかってたんです。「このままで良いのだろうか・・・」と。大学にいた5年間、「社会人2,3年目って感じだよね。」という言葉は、大学2年生から大学5年生のおよそ4年間に渡って私に掛けられ続けました。この言葉を初めて掛けられた時は凄い嬉しかったんですが、段々と違和感を持ち始めます。「自分成長してないんじゃね?」と。大学2年生の時よりはスキル的には成長しているはずなのに、周囲の大人たちの評価は変わらない。4年間同じ評価をされ続けるのはなかなか堪えるものがありました。でも、責任を取らない選択を自分でとってきたので因果応報。諦めていました。

さらに、逃げグセがあり、かつ楽観的な私は、「社会人というステータスを獲得したら自然と責任が発生して「社会人2,3年目」のレッテルを越えられるのでは、と勝手に思っていました。そして、私は就職し、丸2年が経とうとしています。

社会人になって2年。私は「責任」を持てるようになったのか?

お陰様で2年間社会人をやらせてもらいました。会社の人たちや中にはお客様からも「2年目とは思えないね」と言っていただくこともあります。どうやら「社会人2,3年目ぐらい」というレッテルは突破したみたいです。そして、今になっては、自分に貼られるレッテルとかどうでも良くなったので、今の自分への世間からのレッテルにはあまり興味はありません。

でも、大学生のときに感じていた「責任を取らない私」は果たして変わったのだろうか、ということは時々思います。肩書という観点で見れば、もし私の担当のお客様から「責任者を出せ」と言われた場合に出ていくのは、上司であって私ではありません。肩書という観点では、責任を取れる立場には、依然としてなっていません。

また、依然として逃げグセは直っていません。自分の失敗になる可能性のあるときに、本来は自分が判断すべき場面でも判断から逃げることが時々あります。失敗したがらない、という意味でも、責任を取らない立場を依然として取りたがる幼稚な精神性を持ち続けています。

正直、全然責任を取れるように、自分が成長した実感はありません。

あれ、そもそも「責任」って何だっけ

広辞苑での定義はこうだそうです。

人が引き受けてなすべき任務

意味わからん。

みんな大好き新解さん(新明解国語辞典)ではどうでしょう。

自分の分担として、それだけはしなければならない任務(負担)

残念これでもわからない。では、具体例を想起してみましょう。

例えば、大きい会社が不祥事を起こしたとき、あるときは「責任をとって辞任しろ」と世間は怒り、辞任すればするで「後処理から逃げて責任をとっていない」と世間は怒ります。

私がミスを起こしたことを上司がお客様に対して謝ったからと言って、ミスが無くなるわけでも再発防止になるわけでもありません。「会社として謝った」ことに世間的になるだけです。

給料が上がると、会社からは「責任も増えるね」なんて言われます。色んな側面があるんでしょうが、給料の対価として会社への貢献も増やさなきゃいけないぞ、という意味合いが強いんですかね。

世間には、相手が若いというだけで、なんなら女性というだけで、「お前に責任なんか取れるのか」とガンギレする不思議な方もいらっしゃいます。

こういうのを見ていると「責任を取る」って、「自分以外の人に対して自分の言動の結果を納得させる」ことに過ぎないのでは、という気がしてきました。いや、自責の念なんて言葉があるぐらいだから、自分を含めた全ての人を対象として良いのかな。誰かに対して「責任を取る」ことは、誰かに対して「自分の言動の結果を納得させる」こと、と試しに定義してみましょう。

では、責任を取るためにできることってなんなんだ。

「責任を取る」ことが「自分の言動の結果を納得させる」ことなのであれば、「責任を取る」ためにできることは以下の2つです。

(1)納得してくれる相手を増やす。
(2)結果を立派にする。

(1)を実現するためには、自分の関係人口を増やしたり、1つの言動の影響範囲を広げて行けば良いのでしょうか。

(2)を実現するためには、もはや一つ一つの事象や一人ひとりに真剣に向き合うとか自分の武器を増やすとか、社会人に求められる普遍的なスキルみたいになってしまいます。

なんか、すごく面白くない結論です。結局、社会や会社や知り合う人や自分が求めることを実現できるようになれば、責任を取れるようになる、ということになってしまいました。すごく面白くない結論ですが、でも責任が取れる立場にある、と言われるような人を思い起こすと、あながち間違っていないような気もします。すごく面白くない結論ですが、すごく面白くない結論だったので、私の気持ちは軽くなりました。

長々読んでいただいてすいませんでした。
目の前の課題に一つずつ向き合い、皆さんにご納得いただける結果を出しながら少しずつ成長して、責任が取れる社会人になりたいと思いますので、どうぞこれからもよろしくお願いします。

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