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もういちど文章を書けるようになりたい話(前編)


今話題の天才プログラマー氏のブログ記事を見て、
ああそういや自分にも“あった”なそんな感じのやつ。
と、思い出した。

1,

上記の記事に、プログラムを論理的に思考しながら書いているわけではない、という、プログラムの自動筆記ともいうべき状態への言及がある。

これから書くのは、プログラミングの話ではないし、僕も天才ではないし、天才性どころかADHDの症状の一部への言及に他ならないのだが、なんとなく似たように思えなくもない感じの、自動筆記機能は僕にもあった。
過去形だ。

要は、脳が壊れて失われた機能でもあるのだが、このことは僕の身に起きた脳コワ現象の中核をなす問題なので、自分の脳コワ状態と向き合おうとするならば、必然触れないわけにはいかない。

2,

ここでまず僕がどういう種類の脳コワさんであるのかを、シンプルにまとめておく。

明らかな発達傾向にありながら、自覚の上では一切困っていない人生を送っていたが、ある時点で脳が壊れて、高次機能障害に相当する症状を発症。
しかしながら、高次脳は特徴の重複のために発達にカバーリングされて判別が難しくなってしまう上に、現状麻痺や視野の欠損などに相当する身体症状がほとんどないために高次脳での診断はほぼ不可能。
結局発達の症状の方では困っていないのに発達障害の名前で診断が下り、どうもちぐはぐな扱いを受けながら、そうじゃないんだけどなと思いつつ生きている感じの脳コワさんだ。

全然シンプルじゃない。

高次脳で困っているのに発達で病院に通う羽目になっている、困りごとと診断が噛み合わない、でもじゃあ発達じゃないかと言ったら、完全に生まれながらの発達だが、症状の軽重でいうならば本来グレーゾーンぐらいに位置するであろう脳コワさんである。

もう少しシンプルに。

発達グレーがのちに高次脳も拾った、複合型脳コワさんである。

3,

元の話に戻ろう。

氏のブログ記事を読み、そのプログラムの自動筆記機能の話を見て、自分にもなーんか似たような感じの自動筆記機能があったなと思い出した。
10年前、以前の話だ。

僕の場合に自動筆記は、文字通りの自動筆記。
文章を自動で生成するという意味の自動筆記機能である。
氏と同様、記述の際に論理的思考は一切介在しない。
頭を使おうとすると、それがノイズになってろくでもないことが起こるので、思考は極力介在させない
「下手の考え休むに似たり」というが慣れない頭を使って考えたりしたら、休むどころか露骨に足を引っ張るのは、経験上身に染みている。
ボールペンを持ってノートの前か、徒手空拳でパソコンの前に座れば、後は時間と体力を供出することにより、自動で文章が生成される。
頭を使わないことが、なによりも重要である。

スマホのメモ帳機能を開けば――とは書かないのは、スマホを持つようになる前に破損した機能だからだ。

4,

これがADHDの症状への言及でもある、という点について説明しよう。

ADHDの人の中には、とりわけ思考しようとしていないにも関わらず、脳内で大量の情報が洪水をおこしがちな人がよくいる。
僕は勝手にフラッド現象と呼んでいる。
先日あふれる、という意味だと学んだところなので、正確に言えばこの間からそう呼んでいる。ついでに亜人も意識している。
ともかくその、放っておくと、疲れるか飽きるまでずっと頭の中を流れ続けて、日常生活に支障をきたすであろう大量の情報を、そのまま出力すると自動筆記となる。

出力すれば、とりあえず気が済むし忘れられる。
効率的に忘れるために出力していると言っても過言ではない。
そういうモノなので、文章を推敲するノウハウも実はあまり持っていないし、誤字には常に死ぬほど悩まされる。
文章を整えたり構成したりはとりわけしていない。初めから概ね完成形で流れてくる。

なんて便利な機能なんだ。
作文や日記や、書類を書くのにとても役立ちそう。
と、思われる方が出てしまうと大変にまずいので、はっきり言葉にしておかなければ。

役に立たない。
まったく役に立たない。
驚くほど役に立たない。

感想を書いてね、などと言われて渡された原稿用紙を前にしたそのとき、我々は無になる。
常時流れ出していた洪水のごとき思考は止まり、完全なる静寂が訪れる。
ダムの放水を止めたかの如く思考の流れは一滴も残さずに絶え、脳内は波一つ立てずに静まり返る。
その不穏なほど凪いだ水面の下で、なんで何も書くことが湧いてこないんだ、という不安と焦燥が黒々と渦巻いている。
いつもはうるさく落ち着きなく動き回っているはずの我々は、原稿用紙や書類を前に、なぜか停止状態に陥っている。
我々にとって思考とは、能動的に行うものではない。
それは常に、勝手に行われるものなのだ。

我々は思考を行う主体ではなく、思考に乗っ取られた肉体に過ぎないのかもしれない、などというクソみたいな考えに限って、静かな脳内を堂々と行ったり来たりしている。

という感じになる。
わりとマジで。

もっと単純に説明するならば、「ADHDには、思考の量や内容や、引き起こすタイミングを、意識的にコントロールすることが苦手な特性がしばしばみられる」ということにでもなろうか。

5,

そんなわけで、僕は人生において能動的な思考をあまりしてこなかった。

要は苦手だからだ。
深く考えずに、自動思考に任せておいても、人生がだいたいどうにかなってしまったということでもある。
この厄介な思考の仕組みは、意識的なコントロールが難しいことが難点なだけで、本能的かつ直観的な反応を自動的に増幅してくれているという側面もある。
作文や書類が書けないだけで、案外生存だけを目的とするなら、人為的な操作を殆どしなくてもわりと大抵の知的作業がどうにかなってしまう、便利な機能でもあったのである。

なんとかなってしまっていた。
僕は明らかに過活動な人間だったが、その行動力は、あくまで衝動性と、無意識かつ自動的な反応によるものだった。
異様な行動力にも関わらず、意識的に何かを考え、意志の力で実行するという経験を、ほとんどしたことがなかった。
機能的にそれが、他の人より少し難しいという側面があったにしても、必要がないと思っていたからわざわざ身につけなかったことは否定できない。

その『意識的に思考し、意思の力で実行する能力』の弱さは、脳の機能的な不具合がでて以降、おそろしく自分の足を引っ張る要因となる。


なんかえらく長くなってきたので、ここで文章をちょっと分ける。


金銭を与えると確実にえさ代になります。内訳はだいたい、本とコーヒーとおやつです。