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「ことば、身体、学び 『できるようになる』とはどういうことか」を読んだ

「ことば、身体、学び 『できるようになる』とはどういうことか」為末大、今井むつみ

読書期間
2024年7月上旬〜7月中旬。

手にとったきっかけ
ビブ友(ビブリオバトル友達のこと)さんの紹介で手に取る。為末大さんはもちろん知っていたが、心理学者の今井むつみ先生のことも「ゆる言語学ラジオ」を通して知っていた。別の本を読もうとしていたところ、先にこの本と巡り会えた。

●「空き缶を潰すように地面を踏みなさい」
映像は正確に動きを移すが、それをやっている本人がどこに意識を置き、どこに力を入れているかを伝えることはできない。映像には非常に多くの情報が含まれているが、人間が意識できるのはせいぜい1か所程度。本当に見なければならないポイントがどこなのかわからなくなってしまう。熟練した人は映像を見て意識をおくべきポイントを想像できるが、経験が浅い人にはそれができない、という。そこで指導現場で使われるのが「言葉」。走る練習をするときに「バタバタ走るな」と言っても変化がなかったのに、「空き缶を潰すように地面を踏みなさい」といった瞬間に、全体がピタッとハマるような動きに変わることがある、と言う。

●受け手に合わせてことばを変えることの重要性
ピッチャーがボールを投げた瞬間の指を切るような動きは「タオルを弾くように投げる」、ハードルにあたって転びそうで怖い人には「ハードルの上に襖をイメージしてそれを蹴り破るように跳ぶ」。スクワットをするときに「膝を出さないように」と言っても、なかなか上手にできないけれど「少し後ろにある椅子に座るように腰をおろして、おじぎしながら、そこから立ち上がりましょう」と言ってみる。現実をそのまま映し出すのではなく、受け手に合わせて言葉を考える。受け取る人の認識を想像しながら言葉を選ぶことで、同じ動きを引き出そうとする。最初の20ページほどで語られる身体のことばの数々に、「あー、そんなふうに伝える方法があったのか!」と目の鱗がバリバリ剥がれていく。面白い。

●熟達とはなにか
巧みに身体を動かす人を見て「運動神経がいい」と言う。この本ではそれを「修正能力の高さ」ではないか、と言っている。運動神経がいい人は、やってみたあとのズレの認識と、そのズレを修正する能力が高く、何度かやるとすぐやりたい動きに近づけるのではないか、と。この一文を読んだとき、私は自分の運転について思うところがあった。どんなに下手な運転でも、毎日数キロメートルずつでも練習していると、「今日は流れにのって走れたし、ちゃんと車庫入れもできたな」と思える日がある。また熟練者ほど、緊張と弛緩の差が大きい、という。私は高速道路の運転が苦手だ。おそらく緊張しすぎて弛緩できないのだ。周囲のドライバーの多くが、高速道路の運転は楽だと言う。注視するべきポイントをおさえつつ、リラックスして運転しているのだろう。

●3分の1と2分の1ではどちらが大きい?
学びにおける言葉の問題について。分数の計算は操作としてできるのだが、文章題になるとまったく解けない、という子どもがいる。しかし大半の子どもは、計算できることをもって「分数がわかる、できる」と言う。「わかる」子どもに「3分の1と2分の1ではどちらが大きい?」と聞くと、3分の1が大きい、と答えることが多いという。そして2分の3にいたっては、分数ではない。1より大きいものは分数ではない、と考えてしまうのだ。分母や分子の概念をきちんと伝えていく必要があり、それは子どもの知識のスキーマに沿って丁寧に行われなければならないのだが、限られた時間の中では難しいのかもしれない。また一度覚えたことを、前に先生がこう言った!と強く主張し、中学生になってもなかなか習得できない…そんな場に直面することがある。小プールから大プール、近所の川、遠浅の海、そして足のつかない大海へ。置かれている知識の環境(=スキーマ)をどんどん広げていってあげる。そこにもやはり、選びぬかれた言葉が必要そうである。

●一度読むと、目次を読むだけで面白い。
最後にこの本の素晴らしさについて。読み手のスキーマを想定して書かれているためか、読みやすいし、内容も深い。目次→本文→目次、の順で読んだが、本文をすべて読んだあとに目次を読むと、その章に何が書かれていたか、つぶさに思い出すことができる。手元に置いて繰り返し読みたくなる1冊であった。


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