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読切小説/犬の気持ちの話_20210622

なぜか女は夜な夜な食べ物を口に入れては、その後自責の念に駆られている。

今も俺の目の前で、フライドチキンという名前の、鳥の肉に余計なパサパサしてベタベタしたしょっぱ過ぎるものを巻き付けた食べ物と、インスタントラーメンというもう何なのかも分からない水っぽい食べ物を、大きなどんぶりいっぱいに食べている。食べているときの女は実に幸せそうである。一心不乱に目の前の食べ物を口に運び、俺が近づいてクンクンと匂いを嗅ぐと「だめよ」などと言いながらも上機嫌に頭を撫でてくれる。俺は過去の同じような夜に、女が少し席を外した隙にこれらの食べ物を舐めたことがあるので、その後はちっとも口にしたいなどという願望は消えたのだが、自分の愛する女に頭を撫でてもらいたいがために、わざわざクンクンと匂いを嗅いでいるのだ。上目遣いに女が生き物としての本能に従って生き生きとしている姿を見ながら、俺は満ち足りた気持ちになる。実に幸せなことだ。

しかしこの幸せは、毎回突然に幕を降ろしてしまう。女は食べ物の最後の一口を飲み込んだ瞬間から、なぜか猛烈な自責の念に駆られだす。これは何度見ても本当に理解に苦しむ。「私はダメな人間だ」とか「デブだ」とか言いながら、失望した目で食べ物の消えたどんぶりを見ている。俺は悲しむ女を励まそうと、女の手や顔を舐めるのだが、微かに残った鳥の肉の匂いに惑わされてついつい執拗に舐めてしまうので「もう、あんたまで私をブタ呼ばわりするのね、ひどい子」など言われて女を逆上させるばかりか、とんだ汚名まで着せられてしまうのだった。

俺は、食べ物をたくさん食べて、体を大きくすることの何が悪いのかが分からない。俺は女に拾われるまで、毎日お腹をすかせて世界を彷徨っていた。俺はもちろんおっかさんから産まれたが、おっかさんの記憶はほとんどないし、見たこともない。かすかに、お乳の匂いと俺を舐める舌の温かさのようなものを覚えているが、ある日何かにひょいとつままれて箱に入れられたと思ったら、見知らぬ河原に置かれていた。寒くてお腹がすいて、一緒にいた兄弟たちと体を寄せ合ってぶるぶる震えた。この後のことは記憶が朦朧としているが、確かカラスだの猫だのに襲われ続けるうちに兄弟たちは散りじりになり、俺は虫を食べて空腹を誤魔化しながら、ほかの生き物から隠れてひとり震えていた。そんな日々が何日も続き、精魂の尽き果ててパタリと眠っていると、何か暖かいものが俺をふわりと抱き上げた。それがこの女との出会いだった。

俺はこの経験から、食べることは生きることで、たくさんの食べ物にありつけるということは、それだけ生き物としての力が強いということだと理解した。たくさん食べて体が大きくなることというのは誇るべき地位の象徴である。だから、なぜ女が自らの名誉に悲しむのか理解に苦しむところだが、女の発言を通して俺にもだんだんと分かってきた。女は、どうやら何者かから洗脳を受けているのだ。その何者かが、食べ物をたくさん食べることや大きな体でいることは醜いことだと、女に吹き込んでいるらしい。この女は持ち前の素直さと慈悲深さから、そのペテン師のいうことを信じてしまったのだ。であれば自分の行いを後悔するなどという、どう考えても生産性のない行為を繰り返してしまうのも、納得できる。ペテン師め、見たことはないがどうせ痩せっぽっちで見るからに生き物として軟弱そうで、それでいて己の力の弱さを誤魔化すために精神性ばかり解きたがる、目力と口ばかり達者な弱虫に違いない。俺の愛する女を欺くとは、会う機会があればひと噛みで絶命させてやるつもりだ。

女がいいと言うのなら、俺が女を養ってやってもいいと思っている。俺だってもう立派な成犬だから、ふたりで森にでも住めば、ふたり分の食い扶持くらいは確保できる。女の覗いていた本が言うには、俺はどうやら狩猟犬の血を引いているらしい。実際にやったことはないが、ネズミだの狸だのハトだのならば幾らでも取れそうな気がする。今は女の世話になりながら、犬用完全栄養食なるものを食べ、暖かい布団で眠っているが、俺はこだわらない。女が居てさえしてくれればいいのだ。生き物として無力な俺を抱き上げてくれたあの時から、この女が俺の全てだ。

女だって、自分を否定しながら他人に屈して生きるより、多少生活環境が変わったって自分らしく生きる方がずっと幸せだろう。俺は絶対に女を否定したりなんかしない。今度は俺が食べ物をこしらえて、ふたりで思いのままに貪り食べるのだ、そして夜は土を掘った寝ぐらでふたり体を寄せ合って眠ればいい。

次に女が泣いたら、俺はやろうと決めている。まずペテン師のところへ行って喉を噛み切ったら、女の手を引いて走るのだ。たとえ女がこの場所に未練を残していようとも、俺は女の手をぐいぐいと引いて森に向かう。そしてふたりで生き物らしく生命を謳歌するのだ。




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