見出し画像

読書メモ:『人新世の「資本論」』

この本を読んで100%しっかり理解できたかというとそうではないし、難しい話もあった。だけれど、現時点で私が感じたこと、本に直接書かれている以外のことも含めて、著者の意図などを洗い出してみたい。

▼ 著者の思い

著者はこの本を通して、おそらく「これが唯一絶対の正解だ」と言いたかったわけではないのではないかと感じた。自分の中にも、まだまだ実例に不足なこともあるし(なぜならこれから実現していこうとする世界だから当然のこと)論理の飛躍、もうちょっとこの理論を詰めたいと思われていることもあるだろう。具体的な理論や方法については脇に置いておくとしたら、この本はこんな思いで書かれ、こういうことを伝えたかったのではないか。意訳も含まれるけれど、私が受け取ったことは以下の3つ。

◎前提を疑え

→ 今のままでいいと思うのか?もしそうでないならば、今、当たり前だと思っていることを「本当にそうなのか?」と立ち止まって考える。その考えを持つ前提を、今一度疑ってみるべきだ。
例えば「豊かさ」について。私たちが豊かだと思っていることとは別に本当の豊かさがあるとしたら…?これが豊かさの象徴だと思い込まされているものがあるとしたら…?
成長することは素晴らしいことだ、成長はすべきことだと思っているけれど、それは本当なのか…?ずっと成長し続けるべきなのか?それは成長なのか、ただの膨張ではないのか…?
世の中苦しいのが当たり前、搾取する人とされる人でできている、自分たちはどうせ搾取される側だ、政治がそういう状況を変えるべきだ。果たしてそうなのか…?
私たちが現状に甘んじることで、利益を得ている人がいるとしたら…?変化することは、私たちにとって損なだけなのだろうか、利益をもたらすことがあるのではないか…?
私たちは、本当に、今の資本主義の中で生きることしかできないのか…?


◎新しきを創造する

→ 今の当たり前を疑った結果、疑問に思ったのなら、新しいものを創造する。いきなり大きな仕組みをつくるのは確かに厳しいかもしれない。でも、目を凝らせば小さな変化はすでに現実に現れている。それを糧にさらに展開してみる。それが正しいものかどうかは、先にならないと分からないだろう。新しいものの創造は正しいから起こるのではない。創造の中から新たな創造が生まれる。
→ 二項対立からの脱却。資本主義か共産主義か、の話をしているのではない。どちらが優れているのかという話ではない。それは過去の先人たちがすでに実践している。もちろんまだあらゆる論理が100%正解ということはなく、議論の余地はあるかもしれない。すべてが完璧ではない。どちらが優れているか、という比較ではなく、優れている点も、そして現時点で考えられる矛盾点を見出し、考慮しつつ、それらを超えていくものを、今の私たちは創り上げていく時期に来ているのではないか。

◎3.5%になる

この本を読んで、人によってはイラつきや感情のザラつきを覚える場合があるらしい。その内容を聞いたり読んだりしていると、論理そのものについてというよりは感情の反応のようだ。挑発的な書き方だったり、極端な論理の展開があるように感じるらしい。もちろん、主張ありきだろうし、まだ著者本人としても思想の発展途中で言語化できていない部分が極端な論理の展開になってしまう向きもあるだろう。(むしろ万人に対して100%の論理展開を書けるほうが珍しいのではないか)

だけれど、私たちが向き合うべきは、そんな些細なところなのだろうか?詳細が見える人にとって些細な間違いや矛盾を指摘して、その場に留まることが、果たして私たちが今取るべき行動なのだろうか。


しかし、ここに「3.5%」という数字がある。なんの数字かわかるだろうか。ハーヴァード大学の政治学者エリカ・チェノウェスらの研究によると、「3.5%」の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わるというのである。
フィリピンのマルコス独裁を打倒した「ピープルパワー革命」(1986年)、大統領のエドアルド・ シェワルナゼを辞任に追い込んだグルジアの「バラ革命」(2003年)は、「3.5%」の非暴力的な市民不服従がもたらした社会変革の、ほんの一例だ。
そして、ニューヨークのウォール街占拠運動も、バルセロナの座り込みも、最初は少人数で始まった。グレタ・トゥーンベリの学校ストライキなど「たったひとり」だ。「1% VS 99%」のスローガンを生んだウォール街占拠運動の座り込みに本格的に参加した数も、入れ代わり立ち代わりで、数千人だろう。
それでも、こうした大胆な抗議活動は、社会に大きなインパクトをもたらした。デモは数万〜数十万人規模になる。SNSでその動画は数十万〜数百万回拡散される。そうなると、選挙では、数百万の票になる。これぞ、変革の道である。
資本主義と気候変動の問題に本気で関心を持ち、熱心なコミットメントをしてくれる人々を3.5%集めるのは、なんだかできそうな気がしてこないだろうか。それどころか、資本主義の格差や環境破壊に怒り、将来の世代やグローバル・サウスのために闘う想像力をもって、一緒に闘ってくれそうな人は、日本なら、もっといてもおかしくないくらいだ。そうした人たちが、今はさまざまな理由から動けないほかの人の分まで、大胆な決意とともに、まずアクションを起こしていく。
(中略)
すぐにやれること・やらなくてはならないことはいくらでもある。だから、システムの変革という課題が大きいことを、なにもしないことの言い訳にしてはいけない。一人ひとりの参加が3.5%にとっては決定的に重要なのだから。
これまで私たちが無関心だったせいで、1%の富裕層・エリート層が好き勝手にルールを変えて、自分たちの価値観に合わせて、社会の仕組みや利害を作りあげてしまった。
けれども、そろそろ、はっきりとしたNOをつきつけるときだ。冷笑主義を捨て、99%の力を見せつけてやろう。そのためには、まず3.5%が、今この瞬間から動き出すのが鍵である。その動きが、大きなうねりとなれば、資本の力は制限され、民主主義は刷新され、脱炭素社会も実現されるに違いない。(362〜364ページ)

なにができるか分からないけれど、私は3.5%になりたい。いや、無理かもしれないから3.5%の予備軍でもいい。現状に降伏して受け入れてしまい、外に目を向けることができなくなっては予備軍にはなれない。なにができるか分からないけれど、適切な知識や視野を持てていれば、大きなうねりの一滴にはなれるかもしれない。


上記3点を思い起こさせてくれただけで、私にとってこの本は良書だった。


▼ 他の人の感想で思ったこと

話題になった本とのことで、たくさんのレビューが並んでいた。その中で、この本で言われている「脱成長」という言葉が違うと思う、という内容のレビューがあった。主張の要約として「脱成長と言っているが、世界として何を成長させるかがポイントであって、結局この本ではコミュニズムを成長させようと言っているのではないのか。それは脱成長ではないのではないか」ということだった。なるほど、この人はこう感じたのか、おもしろいなぁと思うと同時に、私はやっぱり「脱成長」という言葉はどうしても使わなければいけなかったんじゃないかと感じている。

なぜなら「世界として何を成長させるのかがポイントだ」という前提には「成長はいいことだ、成長すべきだ」という思いが見受けられるから。そうではなく、著者の斎藤さんがおっしゃっているのは「成長がいいものだ、成長すべきだという前提から脱却しましょうよ」ということだから、成長神話から脱出しないといけない。そういう意味で「脱成長」なのだ。

資本主義がいいのか、共産主義がいいのか。そんな二項対立で話をしているわけではない。資本主義の過去と現状がある、共産主義の過去と現状がある。その上で、その両方を包摂し、超えていくものは何か、みなで議論しようじゃないか、と語りかけているのだと私は感じる。

肯定的レビューもおもしろいし、批判的レビューも面白い。批判レビューは論理の不完全さを指摘する。だけれど、批判する人も批判のみに留まり、論理の不完全さを補ってくれるわけでもない。論理的に矛盾点を指摘しますよ、という人も、指摘後の新しい理論まで提示してくれるわけではない。そもそも誰か一人が、どこかの団体が、完全なひとつを提案することはありえないし、正解を出せるわけでもない。正解を出してみろよ、という姿勢は重要ではなく、しかし、この点が不足していると指摘することは、その論理に参加しているとも言えて、ともにその論理を磨き上げているとも言えるのかもしれない。

投じられた一石から、人々の疑問や納得、批判を呼び起こして、また新たなものを生み出していく。そのプロセスそのものが重要なのだと思う。そういう意味で、まんまと著者斎藤さんの3.5%に取り込まれているように思うのだ。


▼ 俺の屍を越えてゆけ

なぜかこの本を読んだとき、「俺の屍を越えてゆけ」という言葉が浮かんだ。どこからそんなイメージが湧いたのか。

まず、マルクスの思想の流れとして。今、世の中で広く出回っているマルクスの思想はマルクスが若いときに発表されたものらしい。しかし新たにマルクスの「研究ノート」が着目されるようになり、晩年期にはマルクスの思想は今広まっているものとまた違ったものだということが分かってきたらしいのだ。マルクスも若いときに発表したものがうまくいかない現実を目の当たりにしていたのかもしれない。

「研究ノート」には、マルクスの生涯をかけて研究したもの、大英博物館で本を借りては抜き書きして、アイデアや葛藤も記載されていたらしい。「研究ノート」はあくまで「研究ノート」であり、まとまった論文などではない。道半ばで後世にバトンタッチしたとも言えるかもしれない。

そして、この本の中には、いろんな研究者の説が検証され、反論されたり補足されたりしている。その研究者たちだって、そのときに最高だというものを研究論文にまとめて世界に発表していることは間違いないだろう。そしてそれを100%じゃないにしても世界が評価し、受け入れている。しかし、その正しいとされたものが、後世になって、全然違うじゃん、間違いだったじゃないか、ということももちろんある。後になってみないと分からないことも、世の中には多々ある。私たちはそういう、先人たちの失敗の上に立っているとも言える。研究者たちの本当の気持ちのところは分からないけれど、自分がまとめあげたものが100%正解として後世に残っていなかったとしても、その研究があったからこそ生まれた道があるとしたら、それで本望な部分があるのではないだろうか。未完の部分を引き継いでくれることが希望なのではないだろうか。

学校教育の延長で、ついついどこかに正解があると思いこんでしまったり、100%成功しないといけない、失敗してはいけないと思い込んでいる部分があるとしたら、この「自分は100%には達成しなかったかもしれないけれど、これをバネに後世が学んでくれたら…」という考えは、私たち自身を楽にもしてくれるのではないだろうか。今の私の人生だけで完結できなくてもいい。大きなことに取り組んで、たとえそれが完結できずに道半ばだとしても、後世に引き継げればいい。そうやって時間軸を伸ばすことで見えてくるものがあるのではないか。

AかBか。正解か不正開か。そんな二項対立で考えることが、どれだけ自分たちの制限になることか。AかBではなく、AもBも両方考えて、それらを含んで超えていく道を、私たちはもっと視点を高くして見つめ、模索していくことをこの本は教えてくれた。

そして、以下のような記事も見つけた。

------------------------
 すでに多くの日本人は、おかしなことが起きていると感じている。でもこれまで通りのやり方を続けることしか知らないし、続けたいと思ってしまっている。そうじゃない別の道について、ほとんど誰も議論していません。私は今回の本でその見方を変えていく必要があるということを書きたかったのです。
------------------------
もちろん生きていかないといけないから、資本主義というゲームに乗り続けなければいけない。でもどこかで相対化できるし、何かチャンスがあれば別の船に乗り移ることができるかもしれない。新しい社会の見方、もっと別の道を模索することもできるはずです。発想の転換ができるようになると、今の社会のしんどさもうまく対処できるようになるかもしれません。それは豊かさを再定義して、新しい価値観を作っていくことです。本来クリエイティブだし、楽しいことなんですよね。
------------------------
https://book.asahi.com/article/13965360

そう遠くないことを感じられていたのかもしれない、と思った。


--------以下、自分用抜き書きメモ----------------

■第1章
資本主義のグローバル化と環境危機の関係性の理解
→資本主義が人間だけでなく、自然環境からも掠奪するシステムである

■第2章
グリーンニューディールの問題点
グリーンニューディール:再生可能エネルギーや電気自動車を普及させるための大型財政出動や公共投資を行う。そうやって安定した後賃金の雇用を生み出し、有効需要を増やし、景気を刺激することを目指す
→経済成長をしながら二酸化炭素を十分な速さで削減するのはほぼ不可能
→ 1つの選択肢「脱成長」
どのような達成長を目指すべきなのか?

■第3章
どのような形の脱成長が必要なのか?
→「人新世」の時代のハードランディングを避けるためには、資本主義を明確に批判し脱成長社会への自発的移行を明示的に要求する、理論と実践が求められている。138ページ
それゆえ、新世代の脱成長論は、もっとラディカルな資本主義批判を摂取する必要がある。そう「コミュニズム」だ。
→カール・マルクスと脱成長を統合

→労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。
=新時代の脱成長論(137ページ)

■第4章
マルクスならば「人新世」の環境危機をどのように分析するのかを明らかにし、そして気候ケインズ主義とは異なる解決策へのヒントも提示
「人新世」の新しいマルクス像
→脱成長型のコミュニズム

脱成長≠停滞
日本は長期停滞であり、脱成長ではない

〈コモン〉

社会的に人々に共有され、管理されるべき富のこと

第3の道としての〈コモン〉
水や電力、住居、医療、教育といったものを公共財として、自分たちで民主的に管理すること(141)
・社会的インフラ=水や土壌のような自然環境、電力や交通機関といったもの
・社会制度=教育や医療

〈コモン〉の領域をどんどん拡大していく

マルクスのコミュニズム
・生産者たちが生産手段を〈コモン〉として共同で管理、運営する社会のことを
・人々が生産手段だけでなく地球をも〈コモン〉として管理する社会

143
『資本論』第一巻
この否定の否定は、生産者の私的所有を再建することはせず、資本主義時代の成果を基礎とする個人的所有をつくりだす。すなわち、協業と、地球と労働によって生産された生産手段をコモンとして占有することを基礎とする個人的所有をつくりだすのである。

⇒否定の否定
・1段目の否定
生産者たちが〈コモン〉としての生産手段から切り離され、資本家の下で働かなくてはならなくなったことを示している
・ 2段目の否定(「否定の否定」)
労働者たちが資本家による独占を解体する。そして、地球と生産手段を〈コモン〉として取り戻す

⇒コミュニズムは、無限の価値増殖を求めて地球を荒廃させる資本を打倒する。そして、地球全体をみんなで〈コモン〉として管理しようというのである


単に人々の生活をより豊かにするだけでなく、地球を持続可能な〈コモン〉として、資本の商品化から取り戻そうとする、新しい道を模索せねばならない(147)

「人間と自然の物質代謝」
人間は絶えず自然に働きかけ、さまざまなものを生産し、消費し、廃棄しながら、この惑星上での生を営んでいる。
この自然との循環的な相互作用の事(156)

「自然的物質代謝」
自然の循環過程(157)

労働=人間はほかの動物とは異なる特殊な形で、自然との関係を取り結ぶ。
「人間と自然の物質代謝」を制御、媒介する、人間に特徴的な活動(158)


■第5章
経済成長ますます加速させることによって、コミュニズムを実現しようという「左派加速主義」
「加速主義」を反面教師として検討、批判

資本主義への疑問
どれだけ私たちが無力になり、資本主義なしには生きられないと無意識のうちに感じているか、どれだけ呑み込まれているか

■第6章
「人新世」の資本について
資本主義の生み出す希少性とコミュニズムがもたらす潤沢さの関係
→ 無限の経済成長断念し、万人の繁栄と持続可能性に重きを置くという自己抑制こそが「自由の国」を拡張し、脱成長コミュニズムという未来を作り出す(276ページ)

■第7章
脱成長コミュニズムをどう実現させるのか
脱成長コミュニズムがどのように気候危機を解決するのか
→労働を抜本的に変革していくこと
人間と自然は労働を媒介としてつながっている。だからこそ、労働の形を変えることが、環境危機を乗り越えるためには決定的に重要なのである(297ページ)

・晩年のマルクスが提唱していたのは、生産を「使用価値」重視のものに切り替え、無駄な「価値」の創出につながる生産を減らして、労働時間を短縮すること(319ページ)
・労働者の創造性を奪う分業を減らしていく(320ページ)
それと同時に進めるべきなのが、生産過程の民主化
また、社会にとって有用で、環境負荷の低いエッセンシャルワークの社会的評価を高めていく(320ページ)
→結果、経済の減速

人新世の資本論
鍵=晩期マルクスの視点(298ページ)
マルクスの『資本論』を「脱成長コミュニズム」という立場から読み直す
ポイント=経済成長が減速する分だけ脱成長コミュニズムは持続可能な経済への移行を促進する

脱成長コミュニズムの柱
1)使用価値経済への転換
→価値=商品としての価値
→使用価値=有用性
生産の目的を商品としての「価値」の増大ではなく、「使用価値」にして、生産を社会的な計画のもとにおく(302ページ)
→GDPの増大を目指すのではなく、人々の基本的ニーズを満たすことを重視する
=消費主義とは手を切って、人々の繁栄にとってより必要なものの生産へと切り替え、同時に自己抑制していく

2)労働時間の短縮=根本条件
労働時間を削減して生活の質を向上させる
機械化で人間労働が減る→エネルギー消費は増える
>二酸化炭素排出量を削減するための生産減速を私たちは受け入れるしかない
・「排出の罠」で生産力が落ちるからこそ、「使用価値」を生まない意味のない仕事を削減し、他の必要な部門に労働力を割り当てることがますます重要
・労働力の中身を、充実した、魅力的なものに変えていくことが重要

3)画一的な分業の廃止=労働の創造性を回復させる
既存の脱成長派の議論の枠組み=あくまでも、労働以外の時間に置いて、創造的で、社会的な活動を実現することが目指される

マルクス:労働力を「魅力的」にすることをを求めていた
マルクス:労働以外の余暇としての自由時間を増やすだけでなく、労働時間のうちにおいても、その苦痛、無意味さをなくす。労働をより創造的な、自己実現の活動に変えていく

労働の創造性と自律性を取り戻すために必要な第一歩が、「分業の廃止」
晩年の『ゴーダ綱領批判』
将来社会においては、労働者たちが「分業に奴隷的に従属することがなくなり」、「労働が単に生活のための手段であるだけでなく、労働そのものが第一の生命欲求」になる。そしてその暁には、労働者たちの能力の「全面的な発展」が実現できるはずだ
人間らしい労働を取り戻すべく、画一的な分業をやめれば、経済成長のための効率化は最優先事項ではなくなる
利益よりもやりがいや助け合いが優先される
労働者の活動の幅が多様化し、作業負担の平等なローテーションや地域貢献などが重視されれば、当然これも経済活動の減速をもたらす
→その際、科学やテクノロジーを拒否する必要なし
ポイント=「使用価値」を重点に置いた経済

4)生産過程の民主化
「使用価値」に重きを置きつつ、労働時間を短縮するために、開放的技術を導入していく
労働者たちが生産における意思決定を握る必要=「社会的所有」
→生産手段を〈コモン〉として民主的に管理
=生産をする際にどのような技術を開発し、どういった使い方をするのかについて、より開かれた形での民主的な話し合いによって決めようとする
技術だけではなく、エネルギーや原料についても
生産過程の民主化も、経済の減速を伴う
生産過程の民主化=「アソシエーション「による生産手段の共同管理
→つまり、何を、どれだけ、どうやって生産するかについて、民主的にし決定を行う
コミュニズムは、労働者や地球に優しい新たな「開放的技術」を〈コモン〉として発展させることを目指す

5)エッセンシャル・ワークの重視
使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークの重視
機械化が困難で、人間が労働しないといけない部門=労働集約型産業
儲け(=「価値」)のために労働生産性を過度に追求するなら、最終的にはサービスの質(=「使用価値」)そのものが低下してしまう
現在高給をとっている職業として、マーケティングや広告、コンサルティング、そして金融業や保険業などがあるが、こうした仕事は重要そうに見えるものの、実は社会の再生産そのものには、ほとんど役に立っていない
デヴィッド・グレーバーが指摘するように、これらの仕事に従事している本人さえも、自分の仕事がなくなっても社会に何の問題もないと感じているという。世の中には、無意味な「ブルシット ・ジョブ(クソくだらない仕事)」が溢れている
「使用価値」を重視する社会への移行が必要
エッセンシャル・ワークが、きちんと評価される社会


■第8章
革新的な試み
→都市という資本が生み出した空間を批判し、新しい都市の合理性を生み出すこと



▼ 直近の人気記事 BEST3


もしサポートいただいた場合は、私の魂の目的「繁栄」に従って寄付させていただきます!(寄付先はいずれか:認定NPO法人テラ・ルネッサンス、公益財団法人プラン・インターナショナル・ジャパン、認定NPO法人ACE…)サポートがあった場合月ごとに寄付額を公開します!