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【短編小説】「人」との遭遇

「次の列車はただいま直前の駅まで来ております」
 イヤホン越しにアナウンスが聞こえて初めて、僕は電車が遅れているということに気付いた。
 イヤホンを外し、列車の接近表示を見つめながら次のアナウンスを待つ。
「ただいま直前の駅を出発しましたっ」
 前の駅からこの駅までは順調なダイヤであっても数分はかかる。
 それなのに待ちきれないとばかりにグイグイと背中を押してくる人が居る。
 気持ちは分かるけれど、こういう時こそ譲り合うものじゃないのかと反射的に眉をひそめて顔を向けた、その肩越しの光景が、僕の中から変な声をひねり出した。
「え?」
 その声のボリュームがかなり大きかったのは、そこには誰もいなかったから。
 今度は横から誰かに押される。慌ててそっちの方を見たが、やっぱり誰も居ない。
 あれ? 居ないって? さっきまでものすごい混雑していたよね。
 周囲を見渡すけれど、本当に誰も居ない。
 どういうこと?
 何が起きた?
「列車はまもなく到着しますっ」
 アナウンスは焦った調子で先ほどまでと変わらない。
 なのに誰も居ない。
 それでもひしひしと感じる圧迫感。
 肩や背中に押されている感触もある。誰も居ないのに。
 このホームだけじゃない。向かいのホームにさえも人影は見当たらない。
 疲れているのかな?
 目を閉じ、指の腹で瞼の上から軽く眼球マッサージをしてみる。
 おそるおそる目を開く。
 誰も居ない。
 いや、居る気配はする。
 ざわざわとした人の気配。
 電車が遅れていることを会社に連絡している声。「押すなよ」と怒気をはらんだ声。「遅れてるよねー」と確認し合う若い女子たちの声。
 声は聞こえるんだ。声は。
 もう一度目を閉じる。
 電車がホームへ到着した音。
 目を開けて乗り口を確認する。ドアが開くのが見える。しかしそのドアの向こう、車内にも人の姿は全く見えない。
 ドン、ドン、ゴン。
 悪意さえ感じるほどの衝撃が次々と肩や背中にぶつかってくる。
 たくさんの足音が見えないドアへと群がって進む。
 戸惑う僕を残したまま、無人の電車のドアは閉じ――かけて、また開いた。
「お荷物、内側へお引きくださいっ」
 目の前のドアは、まるで何かが挟まっているかのように閉じかけては開く。
 僕の目には人も荷物も見えない状態のまま。
「お荷物お引きくださいっ!」
 加熱するアナウンスのテンションとは反対に、僕の背中に冷たいものが流れるのを感じた。
 異常過ぎる事態。
 僕はどうしてしまったのか。
 目がおかしくなったのか。
 でも見えないのは人とか荷物とかあとは人が来ている衣服や靴くらいで、それ以外は全ていつもと同じように見えている。電車も、ホームも、ベンチも、駅舎も、
 では目ではなく、脳の問題なのだろうか。
 幻覚を見ているのか。
 変な薬に手を出した記憶はない。
 それともこれがいわゆる「異世界に来た」ってやつなのだろうか。
 この「見えない人」のようなナニカは、人のような音を出す透明な未確認生物とかで。
 バカげた思考は、この周囲の異様な状況に呑まれたせいか?
 体感と現実との不自然な乖離が浮遊感となり、僕のかかとをぐらぐらと揺らす。
 膝に力が入らなくなりつつある。
 なんなんだいったい。
 その時、脳内に突如として現れた考え――ああ、考えたくない、けどさ。
 本当はさっき押された時に僕はホームに落ちて轢かれて死んでいて――抜け出した魂だけが今ここに?
「発車しまーす」
 あらぬ方向へ突っ走りそうになった僕の妄想は、アナウンスの声を聞いて止まった。
 対照的に、僕が乗れなかった無人の電車はドアを閉じ、加速を始める。
 やがて人が乗っていたとしても見えないくらいにまで小さくなった。
 僕は線路へと近づこうとした。
 あの線路に僕が落ちていないことを確認しておこうかな、なんて思ってしまったからだ。
 歩き出してすぐ、何かにぶつかった感触と同時に男性の「うわ」という声。
 とっさに「すみません」と返したものの、僕の目には相変わらず無人のホーム。
 足音は少しだけ遠ざかる。
 ぶつかったってことは――僕は霊魂などではなくちゃんとした肉体を持っていて、向こうも見えないってだけでちゃんと物理的な体があって、やっぱりここは現実の世界で、そして僕がおかしいってだけなのかな。
 そう考えるのが、現時点では一番無難な気がする。
 とりあえずは「人が見えていないだけ」という前提で動いてみよう。
 いつもの駅ならば、さっきの電車に乗れなかった人も含め、ホームはそんなに空いては居ないはず。
 だとすると、普通に歩こうとすると人にぶつかりまくるかもしれない。
 ベンチにだって先に座っている人が居るかもしれない。
 それが男性でもアレだってのに、女性だったりしたら。
 困った。動くに動けないじゃないか。
 ため息が出る。
 目を閉じる。
 再び開いたら元の視界へ戻ってくれていないかな。
 さあ、開くぞ――お願いだからもとに戻ってくれ、と念を込めつつも、今度は開くのが怖い。
 瞼を押し上げる勇気が湧いてこない。
 そんな僕にかまうことなく、すぐ近くを足早に通り過ぎて行く人のなんと多いことか。
 その半分くらいは僕にぶつかることを厭わない。
 世の中ってこんなにも攻撃的だったっけ。
 もしも僕が白杖を持っていたら、ぶつかっていった人たちは気を付けてくれただろうか――それともこの攻撃性が世界のスタンダードなのだろうか。
 ああ、ダメだダメだ。自分を信じられないときは、世界さえも信じられなくなってゆく。
 あ、またぶつかられた。
「すみません」
 謝罪の言葉をもらったことで少しだけ冷静さを取り戻す。
 ここはホームの中ほど。こんなところにボーっと立っている僕の方だって悪いんだ。
 いいかげん目を開く。
 せめて壁際くらいには移動しとかないとな、と周囲を確認した時、僕の目に「人」が映った。
「え?」
 また声が出る。
 だってそれは「人」であって人ではないナニカだったから。
 「人」。
 「人」、「人」、「人」、「人」、「人」。
 どうなってるんだ、これ。「人」、という漢字?
 ホームにはいつの間にかたくさんの「人」という漢字がひしめいていた。

 人が「人」に見えている?
 慌てて自分の手を見る。
 そこには見慣れた僕の手がちゃんとある。
 別に漢字の一部分として見えるわけでもない。
 指も五本あるし、爪だって手相だって指紋だって見えている。
「失礼」
 すぐ真横を「人」が足早に通り過ぎた。
 そうだな。まずは移動しておこう。人に――「人」に? ぶつかられない場所へ。
 見えている「人」を避けながらベンチまで向かい、「人」が座っていない場所に腰掛ける。
 尻の下には固いプラスチックの感触。
 セーフだ。
 となると、「人」に見えているこれらは正しいのかな?
 正しいってのは変か。本当の人なのかな。
 いや本当ってのも変か。
 変なのは視界だけってことにしておきたい。僕の思考までもが変になってしまったら取り返しがつかないような気もする。
 ともかく漢字だろうがアルファベットだろうが見えないよりは随分とマシだ。
 なんせこれならぶつからずに移動することができるから。
 いいね。ポジティブだぞ、自分。
 見えるってことは、認識できるってことは、とてつもなく素晴らしいことじゃないか。
 最初にあまりにも酷い状況に遭遇したせいか、こんな「人」だらけの世界ですら明るく希望に満ちて感じるから不思議だ。
 しかも案外、恐怖も感じないし。
 ふぅ、と深呼吸を一つ。

 少し落ち着いた気持ちで一つ一つの「人」を注意して見ていると、それぞれバラエティに富んでいるということに気付く。
 移動する速度も、背の高さも違う。
 中にはかなり太っている「人」もある。
「ただいま十五分遅れで運行しておりまーす」
 ホームに滑り込んできたばかりの電車がドアを開く。
 今度の電車には「人」がたくさん乗っている。
 ホームに立っていた多くの「人」がその「人」と「人」の隙間に字をねじ込む感じに乗って行く。
 シュールだな。
 頬が少しだけ緩む。
 こんな状況で笑えるなんて自分は思ってたより図太いのかも。
 電車がまた発車する。
 ヤバい。会社に連絡しなきゃ。
 スマホを取り出して電話をかける。
「あの、おはようございます」
「おはよう」
 電話の向こうの上司の声は、いつもと変わらなかった。正確には「かなり心配してくれてそうな声」だけど。
 どう事情を説明しようかと僕がしどろもどろになっていると、優しい声で今日は休んどけと言ってくれた。
 僕はそんなに具合悪そうなのか。
 いや、たぶん本当にどこかの具合は悪いんだろうけど。
「病院にちゃんと行けよ」
 そう言って上司は電話を切った。
 そうだよな。
 この状況が何らかの病気の症状だったとして、実際このままだと仕事にも支障きたすし、それでクビになっても困るし。
 だけど病院ってどこに行けば?
 眼科? それとも脳? どこに行けばいいのか分からない時は総合病院とか?
 そういえば何個か先の駅に、大きい病院があったはず。
 となると、会社に行かずには済んだものの結局、電車に乗るというハードルは越えねばならないのか。
 目的が定まりはしたが、何本かの電車を見送る。
 「人」だらけの電車に乗り込めるほどの気力は、僕の中にまだ溜まっていないから。
 更に何本か電車を見送る。
 嘘みたいな現実から逃避している間に一時間が経過した。
 時間が経っても「人」は漢字のまま。
 あの短時間で全く見えない状態から漢字にまで変化したのだし、漢字から本物の人間にもう少し近づいてくれてもいいとは思うんだけどな。
 さっきまでと変わったことと言ったら「人」の数が減ったくらい。
 そうか。通勤ラッシュのピークを過ぎたのか。
 このくらいの混雑なら、今の僕でも電車に乗れそうな気がしなくもない。
 ベンチから静かに立ち上がる。
 大丈夫。
 ほんの数駅だってば。
 大丈夫だよ。
 大丈夫だから。
 また何度か深呼吸をして、「人」に気をつけながら電車待ちの列に並ぶ。
 アナウンスはもはや遅延を伝えていないというのに、電車がなかなか来てくれない――ような気がするのは、不安なせいだろうか。
 やがて到着してきた電車の、「人」と「人」との隙間に、僕は慎重に踏み込んでみた。
 扉が閉まり、電車が発車する。
 僕はちゃんと乗れている。
 ひとまずこれで何駅か乗り越えられれば、病院のある駅に着くはず。
 「人」をあんまり視界に入れたくなくて、見上げた場所にぶら下がっている車内広告が、いつもと同じように見えることに驚いた。
 広告に写っている人は「人」ではなく人だ。
 ひょっとしたら――スマホを取り出し、こないだ撮った写真を見てみる。
 大阪支社に転勤になったヤマギワの送別会の写真。
 ちゃんと人に見える。
 これ、今の車内を写真に撮ったらどうなるんだろう?
 写真の中は普通の人が写るのかな。それともやっぱり「人」なのかな。
 でも車内の写真なんて撮るのはまずいよな。
 スマホをジャケットの内ポケットへといったん戻す。
 一瞬でも撮影しようとか考えたせいで、周囲の視線が気になって辺りを見回す。
 「人」はどこを見ているかわからないから、結局見られているかどうかもわからない。
 僕は自意識過剰なのかもな。
 車内でスマホを見ている人なんて見ていない人よりも多いかもしれない。考えないようにしよう。
 しかし一時間もずらしただけで車内混雑はこれほどまでに緩和されるものなのか。
 漢字の「人」だとリアルの人間より圧迫感がかなり弱めというのもあるかもしれない。
 僕はもともと満員電車が苦手だから、これはありがたい。
 そんな「人」々の中に、妙な「人」たちが二人、目についた。
 一人の小柄な「人」と、すぐ横に居る痩せた「人」。
 どうも痩せた「人」が小柄な「人」にまとわりついているように見える。
 しかもまとわりつかれている小柄な「人」の方は身をよじっているようにも見えて――あっ、もしかしてこれって痴漢なのか?
 戸惑う僕の目の前で、痩せた「人」は小柄な「人」に絡み続けている。
 でも「人」が「人」にという状況では、触っているのかどうかについて確かな判断ができない。関わらない方がいいかな?
 でも、困っているんだよな、きっと。
 自分が今さっき困っていたことを思い出す。
 世界に味方なんて一人も居ないことの絶望感――つらいよね。
「何かお困りですか?」
 気がついたら二人に近寄っていた。
 きっぱりと声を出せた自分に、僕自身も驚いた。
 いつもの僕なら、もめごと回避のために見て見ぬふりをしていた可能性が高い。
 対面しているのが人ではなく「人」だったからってのもあるかもしれない。
 面と向かっている感がなく、リアリティが薄いから。
 何もなかったときに失礼にあたらないような言葉を選ぶ余裕もあったし、声をかけた今も落ち着いていられる。
 「人」に見えるのも悪いことばかりじゃないかも。
「っ」
 小柄な方の「人」が声にならない声を出した。
 痩せている「人」の動きが止まる。
 やっぱり、なのか?
 僕は二人の「人」の、だいたい顔のあたりを交互に見つめた――つもりだが、正直、向こうがこちらを向いているのかどうかもよくわからない。
 もしかして、やってしまったかな? と内申焦り始めた絶妙なタイミングでドアが開いた。
 次の駅に着いたようだ。
 すると突然、小柄な「人」がこちらの方へよろけた。
 いや違う。痩せた「人」が小柄な「人」を僕の方へと突き飛ばしたのだ。
 痩せた「人」は、ものすごいスピードでドアの外へ走り出す。
 「人」という字が二本の足を交互に前へ出して進む様は走っているとしか形容できない。
 昔のアメリカのアニメーションのようでもある。
 そんなことを考えているわずかな間に、逃げた「人」は僕の視界から消えた。
 おまけにドアも閉まった。
「あの……ありがとう、ございます。ほんとうに……助かりました」
 女性っぽい、かぼそい声が聞こえた。
 目の前の小柄な「人」が、その先端部分をこちらへぺこぺこと下げている。これって頭を下げているのかな。
「助けになれたのなら、よかったです」
 僕がそう言うと、彼女はまたぺこぺこし始める。
 電車が発車し、ガタンと揺れた衝撃で「人」の一部が僕の手につかまった。
 僕の手の甲に、温かい、人の手の感触。
「すみません。ありがとうございます。何度も本当にすみません」
「お気になさらずに」
 彼女には申し訳ないけれど、僕は彼女が助かったことよりも、会話が成立することの方が嬉しかった。
 そして、漢字である彼女が僕に触れたその触覚は生身の人間だと感じられたことの方が。
 「人」は人であったのだということの方が。
 何度も謝る女性の「人」。
「謝ることなんてないですよ。悪いのはあなたじゃないんですから」
 少しだけホッとした僕はそんなことを言えるほどのゆとりさえある。
「ありがとうございます」
 でも本当は、僕自身もありがとうを言いたい気持ちではある。
 コミュニケーション取れたこと、実体は「人」じゃなくちゃんとした人間なのだと感じられたこと。
 もちろん、そこでお礼を言ったら僕が変な人というか状態だとバレてしまうので、会釈だけに留めて次の駅で降りた。
 乗り換え駅だからか一緒に降りる「人」も多い。
 そんな「人」の流れに身をまかせて歩き出し、ホームから階段を上り、駅の改札を出た。
 この辺では大きな駅だけあって改札からは駅ビルへと直結している。
 駅ビルのテナントはまだオープンする時間ではないが、売店やらカフェやらは開いている。
 そして残念ながら、これだけ人が多いはずのここでも、視界に入るのはことごとく「人」のみだった。
 スマホを取り出し、病院の正確な場所と診察開始時間とを調べる。
 開くまであと30分もないようだし、これはもう病院へ向かってしまおう。
 時間前でも待合室は開いているものだし。
 もう一度、目を閉じて、開く。
 さあ、行くか。

 「人」通りの多い道を歩いている途中で、僕は「人」の中から人を見つけ出すのを諦めた。
 人は居ない。
 「人」しか居ない。
 駅からそう離れていない病院へはすぐに着く。
 待合室にはすでに何人かの「人」が座っている。受付に座っているのも「人」。
 受付の「人」に事情を説明――できているのかは不明だけど、精一杯伝えてみた。
 これ、会話が普通にできるのは本当にありがたい。

 診察時間開始から三十分が経ち、僕の名前が呼ばれる。
 診察室へ入ると、やっぱり医師も「人」だった。
 しかし慣れてくるもんなんだな、こんな事態にさえも。
 医師の「人」は僕の話を真面目に聞いてくれた。
 もしも僕だったら、人が漢字に見えるなんてなに冗談言っているんだよ、とか思うだろう。
 でも話を合わせてくれている風でもなく、親身になってくれているのを感じる。
 医師ってのはすごいな、なんて考えていたからだろうか。僕を診てくれている先生が、いつの間にか白衣を着ていた。
 「人」という漢字のままで白衣を着ているのだ。
「もしもし?」
「あ、はいっ」
「ストレス性のものかもしれませんね。とりあえずMRI受けてみましょうか」
「は、はい。MRIですね」
 「人」の看護師さんから受け取ったクリアファイルに挟んである案内図に従い、病院の飾り気がない廊下を進む。
 病院なら他にも白衣を着ていそうな「人」は居るだろうけれど、あの先生以外は全員、飾り気なしの「人」のまま。
 医師か患者か看護師か、何人もの「人」とすれ違い、やがて丈夫そうな金属製の大きな扉の前へと出た。
 傍らの椅子に座り、何度か目をマッサージする。
 こんな大掛かりな検査を受けることになったけれど、直前にあっさり目が治ったりしないものかな。
 なんてことを考えているうちに名前を呼ばれた。
 金属製の大扉を開けて中へと入る。
 部屋の中央には大きなドーナツ形の機械と、その穴部分からべろんとはみ出しているベッドのような台とがある。
 その傍らで待っている「人」は技師さんだろうか、説明をしてくれる。
 声からすると女の人のようだが、見た目からは性別が全くわからない。
 ただ、この機械に取り付けられた台に寝て、合図がされたら動かないでいればいいという事はよくわかった。
 僕が頷くと、その「人」はガラス越しに見える隣の部屋へと移動する。
 ガラス越しに「人」がこちらを――おそらく、こちらを見つめている。
 金属製品を身に着けていてはいけないということでズボンを脱ぐ。
 こういう時は「人」に見えることで恥ずかしさが少しだけ軽減される。
「では、台に横になってください」
「より撮影がスムーズに行えるよう、造影剤を使用いたします」
「今までアレルギーなどのご経験はおありでしょうか」
「注射は大丈夫でしょうか」
 幾つも確認を取られながらも、流れるように準備が進められてゆく。
 造影剤を注射されたあたりからじんわりと温かいものが全身に広がってゆく感覚。
 僕は目を閉じた。
 機械が想像していたよりも大きな音を立て始める。
「では始めます。合図があったらしばらく息を止めてください」
 部屋の中に響くアナウンス。
 動いちゃいけない、動いちゃいけない、そう考える毎に、さっき駅で考えていたバカな妄想の続きが湧いてきてしまう。
 異世界じゃなく宇宙人にさらわれているんじゃないかとか、悪の組織に捕まって改造人間にされている途中なんじゃないかとか。
「はい、終わりです」
 妄想のネタが尽きる前に、部屋を出てゆくよう告げられる。
 僕はズボンをはき、さっきの廊下へと戻った。
 次の患者だろうか、椅子には「人」が腰掛けている。
 そういえば今の技師さんもただの「人」で、白衣とか着ては見えなかったな。
 白衣みたいなオプションがつく理由って何だろう?
 その辺をつきつめていったら、この症状がもう少し解明されたりするのだろうか。
 あの白衣先生の診察室前まで移動し、結果が出るのを待ち続け、そして呼ばれた。
 緊張の瞬間だ。
「あの……結果は……」
「うん。一番心配していた脳の周辺には、特に異常はないようですね」
「じゃあ、原因は」
「申し訳ないですが、現段階では不明です。そしてすぐにはわからないと思います。なにぶん初めての症例なので……いろいろ質問させていただいてよろしいですか」
「はい」
 先生の様々な問いかけにいろいろと答える。
 その中で先生だけ白衣を着ている話をすると「それは重要ですね」と言われた。
「あ、そういえば……もう一つ、気になっていることがあるんです」
「なんですか」
「先生の写真、撮らせていただいてもよろしいですか? スマホ内に残っている過去の画像はちゃんと人に見えるんです」
「なるほどなるほど。それは是非、試してみてください」
 僕はスマホを取り出し、カメラアプリを起動した。
 カメラ越しの先生は……。
「先生っ、先生が人に見えます! 撮る前なのにっ!」
 僕が興奮して叫ぶと、先生は苦笑しながら「良かったですね」と言ってくれた。
 スマホのカメラごしだと先生も、看護師さんも他の「人」もちゃんと人に見えるみたいだ。
 その後もけっこう長い時間をかけて診察してくれた先生が、だんだんうっすら人に見えてきた。
 カメラで写した通りの、少し腹の出た優しそうな中年男性。
「この症状をですね、知り合いの脳専門の医師何人かに報告してみたんです」
「え、いつの間に!」
「電子カルテだから共有が簡単なんですよ。もちろんプライバシーは守りますが。まあ、今回は症例が症例だけに、私一人よりは文殊の知恵といいますか……で、彼らの意見をまとめるとですね、対人関係のストレスが原因で、脳が人と接することを拒否しているんじゃないかという仮説にたどり着いたんですよ」
「そんなことってあるんですか?」
「わかりません。あくまでも仮説です。ヒトの脳については未解明な部分がまだまだあるんですよ」
 僕が先生の姿をうっすら見えていることも踏まえ、先生たちが立てた仮説では、「向き合うこと」にストレスを感じなくなってくると、「人」ではなく本来の姿が見えるのでは、ということらしい。
「まるで人だけ漢字に置き換えてしまうアプリを脳にインストールされてしまった気分ですよ」
 軽い気持ちから出た僕のこの一言が、まさか自分のその後の人生を大きく変えることになろうとは、その時点ではまったく想像もしていなかった。

 最初の診察から三年が経った。
「お久ぶりです」
「一ヶ月ぶりですね。症状は相変わらずですか」
 症状はほとんど変わっていない。
 ほとんど、というのは、この先生のように「慣れて」うっすらと人の姿に見えるようになった「人」が前回の診察よりもちょっと増えたのを考慮した表現だ。
 ちなみに日常生活では、あまりにも漢字人間にばかり接するせいか、こうやってたまに人の姿がちゃんと見える人に会うと、実際の時間はそんなに経っていなくともインパクトを強烈に感じるみたいで、ついつい「久しぶり」という言葉が出ちゃうのは、自分あるあるだ。
「そうですね。相変わらずです」
「そうですか……そういえばあの色の件、どうでした?」
「あ、統計とってみましたよ」
「是非、聞かせてください」
 最近のことだが、実は「人」が色付きで見えることが増えてきたのだ。
 それまで「人」としてのみの認識で、色なんて特段意識してはいなかったのだが、色付きの「人」が現れたことで、それまでの「人」は全て薄い灰色だということを自覚できるようになった。
 どうやら青い「人」は男性で、赤い「人」は女性であるようだ。
 今どきのご時世に性別でこんな色分けなんて我ながらどうかとは思うが、先生曰くトイレの男性用や女性用としてのアイコンに長く触れてきた結果、親しみがある色として選ばれたのではないか、とのこと。
 あと最近新しく増えた黄色い「人」は、挙動が不審だったり威嚇的だったり「一見して近寄りたくない人」として分類しているらしきことが、遭遇数が増えてきたことでわかってきたと、先生へ報告する。
「うんうん。私たちの仮説と一致しますね。文字化現象はストレス軽減、つまり自衛のための動きであると考えています。ですから人という漢字だけでは足りない分の、自衛に必要な情報は表示するようにアップグレードされたのかもしれないですね。あなたの場合は男女を区別する必要がでてきたというところでしょうか。あと、黄色は自然界でも警戒色ですから……」
 言われてみればしっくりくる。
 「人」はかろうじて頭と足は分かるものの、どこが肩だとか手だとか見た目からは全くわからないのだ。
 ということは逆に、気付かずに触ってしまう恐れもあるということで、相手が女性なら男性以上に気を使う。
 そうか。「必要がある」というのはそういうことか。
「そういえば、うちの開発者からも似たようなこと言われました」
「お仕事の方、順調のようですね」
「はい。おかげさまで」
 この症状にかかってから、僕は結局それまで勤めていた会社を辞めざるを得なかった。
 しかし代わりに、先生のご友人に紹介してもらった会社に迎えていただいた。
 そこは五感を情報化するシステムを開発しているベンチャー企業で、僕のこの症状をヒントに、新たなシステムを作るプロジェクトを発足させたという。
 僕の場合は人との関わりを薄くしたいということで情報が簡素化されている。
 でもこれは僕に限らず、多かれ少なかれ大抵の人が行っている作業なのだと言う。
 例えば花好きにとって、ある花束は、一つ一つが薔薇でありガーベラでありラナンキュラスでありスカビオサであり、それら一つ一つの集まりである。
 それに対し、花に特に興味がない人にとっては「花束」という記号的な一つの塊に過ぎない。
 世界は情報が氾濫していて、その全てにおいて詳細に分析していたら脳がオーバーフローしてしまいかねないので、自分にとって必要な情報を優先的に取捨選択して処理をする。
 この優先化の処理ロジックに僕の症例が参考になるらしいのだ。
 まあ僕は営業なので、詳しくはわからないし、うちの技術部の説明を引用しているだけなんだけどね。
 だけどその技術をもとに作り上げたシステムの一つが、こんど大手自動車会社の自動運転技術に採用されることになったというから驚きだ。
 視界にある全てのモノから危険度の高いモノを優先的に認識する部分がこのシステムのキモで、従来の危険認識プログラムよりもわずかに早い速度での判断が可能なんですよ――と、営業トークとして丸覚えしているけれど、僕の症状が人の役に立っているなんていまだに信じられないでいる。
 自分に起きた謎の症状のおかげで、前の会社よりもずっといい給料をいただけていることなど奇跡としか言いようがない。
「最近は、このまま治らない状態でもいいかな、なんて思うようになりました」
「私は、医者としては治したいんですけれどね」
 笑いながら定期検診が終わり、診察室を出ると声をかけられた。
「先輩、どうでした?」
 僕の同僚――小柄な赤い「人」。
 入社時期は同じ年度なのに、わずか半年の違いってだけでいまだに僕を先輩と呼ぶ。
「いつも通りでした」
 彼女は営業仲間であり、僕の症状がいざ悪化した場合、僕をサポートするための講習みたいなものも受けているらしい。
 ただ、客先周りからこういう定期検診までいつも一緒に行動してくれているのに、いまだに「人」にしか見えないことに、なんだか申し訳ないというか、引け目のようなものを常に感じている。
「あの色の話、伝えました?」
「はい。先生がおっしゃるには、自衛のために識別可能になったんじゃないかって」
 彼女は「人」の先端部分をくいっと横にかしげる。
「ジェンダーのことは何か言ってました? 男が青で女が赤っていう発想、私はジェンダーカラーだと思っているんです。社会から刷り込まれた知識を反映させているってことは、社会とのつながりを絶ちたい割に、その防衛システムに社会の常識をがっつり取り入れているっていうアンビバレンツがですね……聞いてます?」
 彼女はこうして自分の意見をけっこうハッキリと言う。
 僕は苦笑いで応える。
 前に一度、彼女の物言いに対して指摘したことがある。
 すると、昔は言いたいことを言うのが苦手だったと言い訳されたのを覚えている。
 よせばいいのに僕は追い打ちをかけるように「とてもそうは思えないなぁ」なんて返してしまった。
 軽い気持ちで。
 すると彼女は声のトーンを変えて、こう見えても努力してるんですよ、と。
 その声には何とも言えない物悲しい気配を感じて、あのやりとりはいまだに僕の中にカサブタのように残っている。
 ああ、あれ以来かも。
 彼女に対してずっとどこかで距離を感じ続けていて、そのせいで彼女はいまだに漢字のままなのかもしれない。
 性格が合わないわけじゃないんだけど、お互い微妙に遠慮し合うことはよくあるし。
 僕と彼女の距離感は、道を譲り合って同じ方向に何度も避けてしまう類のすれ違い、あれに似ている気がしている。
 これでも彼女には、とても感謝はしているんだけどな。
 病院の入り口でそんなことをぼんやり考えていると、彼女が車を回してきた。
 うちの会社の営業用の車だ。
「今日はこのまま駅でいいんですよね? 荷物、忘れてません?」
 彼女は後部トランクを開ける。
 僕は小型のスーツケースを確認し、トランクを閉める。
「大丈夫でした」
 彼女は運転席へ、僕は助手席へと乗り込む。
 今日は検診の後に半休をもらっていて、このまま実家に帰るのだ。
 新幹線のある駅まで、彼女は送ってくれるという。
 多少の混雑の中でも「人」にぶつからないで歩けるレベルに成長した僕にとっては、そのくらいたいした移動でもないのだが、彼女が「なにかあったら私の責任なんですから」といつものように強く言うものだから、せっかくの申し出をありがたくお受けする形にした。
「実家にはどのくらい帰ってないんですか?」
「えーと……四、五年か、もうちょっとか……」
 実は症状のことを親には内緒にしていたりする。
 変に心配させたくなくて、と言えば響きはいいが、転職したことを打ち明けたのもつい去年のことだし、実家に帰っていないのは症状が出る前からだし。
 こうなったことで精神的に孤独感を覚えたこともあったが、親に対して助けを求めたい気持ちにはならなかった。
 迷惑をかけたくないというより、医者も自分自身でもちゃんと理解しきれていない症状を、親に説明するということが単に面倒くさいだけなのかもしれない。
 あと、実際に助けを求めざるを得ない状況にもならなかった。
 この症状が発覚した当時、僕はモルモットみたいにどこかに監禁されて実験動物みたいに扱わるんじゃないかと、症状とは別の不安をも抱えていた。
 現実には、ちょっと変わった症状として何人かの医師に診察されたくらいで、他には特に注目されることもなく、マスコミに見世物として騒がれることもなく、平穏に新しい会社に就職でき、サポートしてくれる人までいて、こう言っちゃ何だが転職前よりも安定している。
 つい先日、僕の症状から始まったシステムが人の役に立つ大きなプロジェクトへ採用されまでして、なにもかも不自然なくらい順調な日々だ。
 その順調のおかげなのかも。久しぶりに帰省しようという気持ちになれたのは。
 自分を取り巻く環境が落ち着いたと思えたからなのかもしれない。
 休暇の申請はもちろんあっさりと許可された。
 僕が実験動物ではなく社員として見てもらえている証だ。
「……人恋しくなったんじゃないですか?」
「えっと、ちょっと考え事しててちゃんと聞いてなかったんですけれど、今なんて言いま」
「けっこうです。気にしないでください」
 怒らせちゃったかな。
 本当は聞こえていた。
 そうかもと答えれば良かったのかな。
 でも、彼女が「人」に見える僕がそんな風に答えたら、彼女が人に見えてないことを改めて宣言するみたいで、それこそ申し訳ない。
 ごめんなさい。
 ほんとうにいつもごめん――ああ、僕は心の中で彼女に謝ってばかりいる気がする。

 その後、駅に着くまで、車内は妙に静かだった。
 彼女に礼を言って僕は新幹線に乗る。
 改札までついてきてくれる。
 僕にとっては本当にもったいないほどのサポートをしてくれる。
 そういう感謝の気持ちをちゃんと伝えなきゃって思って、僕は彼女との別れ際に「いつも、本当に、ありがとう」と伝えた。
 なんか急に恥ずかしくなって、彼女が何かを言いよどんでいるうちに僕は新幹線のホームへと足早に移動した。

 空いている席を見つけて座ると目を閉じる。
 昔だったらここでイヤホンを着けているところだが、最近はほとんど着けることはない。
 視覚を閉じて聴覚を開放すると、人の世界に居る自分を再認識できるから。
 運の良いことに隣に「人」が座ることもなく、降りる駅まで緊張せずに過ごすことができた。
 新幹線から在来線へ乗り換え、ようやく着いた最寄りの駅。
 ここから実家までは徒歩二十五分ほど。
 スーツケースを引きながらだけど、歩いてみることにする。
 変わってしまった景色、変わらない景色。
 変わってしまった自分、変わらない自分。
 世の中の移り変わりにキョロキョロしながら歩いていたら、実家にはすぐに着いてしまった。

 久しぶりの実家は、僕が巣立った頃とほとんど変わっていない。
 街の変化よりも、そのまんま。
 変わったといえば洗濯機とテレビを買い替えていた程度。
 そして、心配していた両親だが、「人」ではなく、ちゃんと両親の姿で見えた。
 小さい頃はやかましい親だと感じていたが、自分にとってさほどストレスではなかったんだなと思えたことは、未来に向けてのささやかな収穫だ。
 と、心の中で褒めた矢先、母親が妙にかまい始めてきた。
「仕事が忙しいと、ちゃんとデートする時間とか取れないんじゃない」
「デートって、誰と」
「もしかして、いい人居ないの? あなたももうすぐ三十路なんだし」
「ごめん。今日は友達と約束あるから」
 妙なプレッシャーを感じた僕は、親が「人」になってしまうのを回避するために、とにもかくにも実家を飛び出した。
 さてどうしよう。
 本当は約束なんてないんだけど――そこで脳裏に浮かぶ懐かしい顔。
 記憶の中の友人たちは、もちろん「人」じゃなく、人としての顔。
 地元だし、嫌な思い出もないし、きっと大丈夫だよな?
 恐る恐る電話してみると、旧友たちは二つ返事で集まってくれた。
 金曜の夜なんて先約が入っていたかもしれないのに。
 その時、ふいに彼女の言葉を思い出す。
 人恋しくなった、というあの言葉を。
 案外、そうなのかもしれないな。

 彼女の言葉は、僕にとって、発せられた時点では対立的に響くことが少なくない。
 でもこうして後から考えると的を得ている場合が多い。
 というか僕のために、僕のことを、どれだけ考えてくれているのだろう、と本当に頭が下がる思いだ。
 僕のことをしっかり見てくれているんだろうな。
 ありがたい。感謝しかない。
 それなのにいまだに「人」にしか見えない彼女に、また「ごめん」って心の中で謝った。
「よー!」
 懐かしい声が聞こえた。
 思わず彼らの方へ振り向いてしまった。
 しまった。
 見ちゃったよ。
 振り向きながらほんの刹那だけそんなことを考えた。
 でも実際は杞憂だった。
 彼らは「人」ではなく人だった。
 それだけで涙がこみ上げてきて、僕は慌てて大げさにあくびするフリをした。
「おいおい。もう眠いのか? どんだけ仕事忙しいんだ? だけど今夜は寝かさねぇからな?」
「そのテンション……本当に久しぶりだな」
 思わず笑みがこぼれる。
 くだらない掛け合いが始まり、また笑う。
 僕は、笑顔を作るための筋肉を自分が普段、いかに動かしていないかを思い知る。
 そしてもう一つ気付いたことがあった。
 彼らは「人」ではなくちゃんと人に見えるのだが、不思議なことに小さい頃遊んでいた当時の顔に見えるのだ。
 これはどういうことだろう。
 大人になってほしくないと僕が思っているのかな。
 それとも、彼らの現在に向き合うのが怖いのだろうか。
 自分の居場所がここにはないような気がして、さっき呑み込んだ涙がまた溢れそうになる。
 そんな僕に、彼らは優しい言葉をかけてくれた。
「おいおい、どうしたよ急に」
 皆、わけがわからないといった面持ちで僕を見つめる。
 僕は思い切って症状のことについて話してみることにした。
 子どもの顔に見えることも。
 怒られるだろうか。
 笑われるだろうか。
 でも、彼らの第一声は意外な言葉だった。
「嬉しいな。だって俺たち漢字じゃないんだろ?」
 彼らはそんな風に言ってくれて、また涙腺が緩む。
 真正面から僕に向きあってくれている。
 そして何よりも、信じてくれている。
 こんなに泣けてくるのは、僕がもうオッサンの仲間入りをしたってことなんだろうか。
「な、そしたらこっち戻ってくるってのはどうだ? 俺たちはいつでも大歓迎だぜ」
 人の、ちゃんとした表情が、見知った連中の年齢を経た顔が、僕を取り囲んでいる。
 そう、いつの間にか、彼らの顔が今の顔として見えていた。
 ここ数年で一番の幸福感というか、生きている実感というか、とにかく楽しかった。
 楽しすぎて、解散は翌日の土曜、東の空が白み始めた頃になったほど。

 朝帰りか。
 恥ずかしさと嬉しさと、妙な高揚感で実家のドアを開ける。
 そして自分の部屋へ行こうとして、ふと、リビングで見た光景が、僕の酔いを一気に消し去った。
 リビングのテーブルに突っ伏している母親が「人」になっていたのだ。
 正確には、昨日家を出る前に母が着ていた服を着た「人」に。
 冗談のつもりだったのに、本当になるなんて。
 というか、人がまた「人」に戻ることがあるのか。
 世界中が「人」だったどん底から、一人、また一人、「人」じゃない人が増えて行き、僕はそこから先、這い上がるしかない状態なのだと楽観的に思い込んでいた。
 せっかく手に入れた人が、また減ってしまうことがあるのか。
 人が「人」に見える症状にかかって以来、最高の幸福感と最低の絶望感とを、今日は同時に味わった。
 だから。
 その日は飲み過ぎを理由に、自分の部屋にこもってずっと寝ていた。
 僕が「人」に感じているストレスの正体は何なんだろう。
 嫌なことがあったらすぐにシャットアウトするなんてのは、自衛のためとはいえどうなんだ?
 こんな僕の未来はどうなってしまうんだろう。
 これからもずっと、親しくなった人がいつ「人」に変わるのかと怯えながら生きていくのかな。
 それなら独りで生きていく方が楽かもしれない。
 僕は独りでなんて生きていけるのかな。
 母の言葉を――おそらく母が「人」になってしまった原因の言葉を思い出す。
 デートなんて、そんな相手なんて。
 ストレスの原因はきっとそういうことだろう。
 結婚かしたいとか思ってもできないだろう、こんなんじゃ。

 鬱々とした気持ちのまま、僕は「風邪をひいた」ことにした。
 ずっと部屋にこもったまま日曜日を過ごす。
 夕暮れか。
 今日はこのまま終わるのかな。
 本当は昼の便で取ってもらっていたチケットはキャンセルさせてもらった。
 まだ、最終便には間に合うけど、でもこんな状態で明日、僕は会社に行けるのかな。
 でもここで逃げてしまったら――でも。でも。でも。
 あっという間に月曜の朝が来た。

 僕はまだ悩み続けていた。
 始業時間前ではあるが、今からじゃ絶対に間に合わない。
 そして、少し迷ってから、休ませてほしいと今の上司へメールした。
 上司からはすぐに返信があった。
 僕を気遣ってくれる文面が添えられて、休暇の許可も下りた。
 これで今日は大丈夫だ。
 でも明日は?
 明後日は?
 社会復帰できなくなったらどうしよう。
 なんで急にこんな風になっちゃったんだろう。
 ドンドンドン。
「返事してくださーい」
 ドンドンドン。
「起きてますかー」
 なんだか聞き慣れた声で目が覚めた。
 窓から差し込む陽射しが朝のそれではなく夕方のそれになっている。
 ということはあのまま寝ちゃったのかな――でもこの声って――何でこの声が聞こえるんだ?
 変だな。
 まさか母の声が彼女の声に聞こえるとかだったら最悪に嫌だな。
 見た目が「人」に変わってしまう今、声まで変化してしまったら、それはもう確実に末期症状だ。
「もう! 開けますよ?」
「ちょ、ちょっと待っ」
「すみません。開けちゃいました」
 小柄な赤い「人」が僕の部屋に入ってきた。
 「人」の姿ではあるものの、すぐにわかった。
 彼女だ。
「どうして、ここに?」
「私も有給休暇取ったんです」
「あ、いや、そういうことじゃなく、どうして」
「住所は社長に教えてもらいました」
「えーと。そういうことじゃなくって」
 というか個人情報どうなってんの?
「部屋に入っても良いとお母様に許可をいただきました」
「え?」
「もしも会社辞めるんだったら、私も一緒に辞めますからね」
 まるで話が見えない。
 しかもどさくさ紛れに今とんでもないこと言わなかった?
「今日という今日は、私が漢字じゃなくなるまで腹を割ってお話させていただきますから!」
「もしかして酔っぱらってる?」
「お酒は一滴も飲んでません。休まず運転してきましたから」
 彼女の勢いに圧されて、僕は布団から這い出て正座する。
「それは……お疲れ様です」
「どうもです……って、そろそろ敬語やめてもらえませんか? ずっと言いたかったんです、それも」
 それも。
 まだ他にもたくさんあるのか。
 そう考えながらも、彼女のこの勢いを心地悪くはないなと思っている自分にも気づく。
 じゃあ、どうして彼女は「人」なんだろう。
 彼女の何が、僕にとってストレスだというのだろうか。
 彼女と最初に出会った時のことを思い出してみる――僕は人が「人」に見えるんだと告げた時、彼女だけは他の「人」とは反応が違っていたことをしっかり覚えている。
 僕が今の会社に入ってから、事情が事情だけに僕をサポートする人が付くと言われた。
 でも、最初についた「人」も、次についた「人」も、その次の「人」も、しばらく一緒に仕事をしていると決まって僕に尋ねてきた。
 自分はもう「人」ではなくなっているか、と。
 彼らはその時点でもまだ「人」で、嘘を言うわけにもいかず僕は「すみません」と答える。
 また数日置いて、再び聞かれる。
 そういうことが何度かあった後、ついに次の「人」に交代する。
 彼女は五代目パートナーだが――そういえば、自分が漢字じゃなくなったかどうかって彼女は一度も聞いてきていなかったかも。
「そうですね……そうだね。もう、七ヶ月か」
「七ヶ月と二週間ですよ」
 彼女が一番長く続いているという事実に、今更ながら気付く。
 彼女は確かに他の「人」とは違う。
 そう、フォント。
 最初に上司に紹介されたあと、僕はいつものように症状について説明した。
 すると彼女はこう言ったんだ。
「それなら、私はどんなフォントですか」
 フォントなんて考えたことがなかった。
 ただ「人」という認識でしかなくて。
 だから彼女に興味を持ったんだっけかな。
 ああ、そうだ。
 あの時だ。思い出した。
 僕は彼女の顔を見た。
 彼女と行動を共にするようになってから数日経ったとき、彼女が何だか珍しいものを食べてたんだ。
 彼女の実家から送られてきた耳馴染みのないお菓子。
 そのお菓子を美味しそうに食べている「人」のおそらく頭の部分へ、ぱくりぱくりと消えてゆくお菓子をぼんやり眺めているうちに、彼女のお菓子を食べる唇が、顔が、うっすらと見えてきたんだ。
 そんな「人」から人の姿へと変わってゆく彼女を見た僕は、彼女の顔を、可愛いって思ってしまったんだ。
 それがいけなかったのかもしれない。
 どうせ彼女もすぐに僕のもとを離れて行く。そうなったらしんどいな、そう考えちゃって――気が付いたら彼女は「人」に戻っていた。 それ以来、ずっと。
「七ヶ月と二週間ですよ。大事なことなので二回言いました」
 赤い「人」が、僕の部屋で、僕の目の前に座っている。
 職場で僕のサポートをしてくれる人が、こんな遠い僕の実家までわざわざ押しかけてきている。
 その事実は、人が漢字に見えてしまうくらい不自然なことのようにも感じる。
「……野和さんは、僕に愛想を尽かしたりしないね。半年どころか三ヶ月もった人だっていなかったのに」
 すると彼女は少しうつむいた。
 答えを探しているのか、沈黙が続く。
 僕は彼女の言葉を待つ。
 待ちながら、彼女が今まで僕にくれた言葉を一つずつ反芻する。
 彼女はずっと僕のことを考えていてくれている。
 そんな気持ちで胸がつまりそうになる。
「私、まだ恩返しできていないんです」
「恩返し?」
「覚えていないと思うんですけれど、私、先輩に助けてもらったこと、あるんです」
「え、いつだろ? 助けてもらっているのはいつも僕の方なのに?」
 僕の方が、彼女を、助けた? まるで記憶にない。
「私が前の会社に勤めていた頃のことです。通勤電車の中で痴漢に遭っていたんです。でも周りの人たちは、気付いてもらえていないのか、誰もかれも無視していて、混んでいたから物理的に逃げることもできなくて。ここで頑張って声をあげても、誰も助けてくれないのかなとか、やめてくださいと言ったら逆ギレされてもっと酷い目にあったらどうしようとか、諦めて我慢するしかないのかなって……もう絶望的な気持ちの中で……そのとき先輩が声をかけてくれたんです。何かお困りですか、って」
 そんなことあったかな――あ、もしかして。
 最初に文字化現象が起きたあの朝の!
「ごめん、まったく気付いてなかった」
「いいんです。ずっと黙っているつもりでした。気付かれていたら一緒に仕事するのが恥ずかしくなっちゃってたと思いますし」
 そうか、あの朝の。
 でも、人が漢字になっていなかったら、果たして僕は彼女を助けられていただろうか。
「私、先輩に声をかけてもらったあの日、行動を起こさないまま諦めるのはやめようって決めたんです。間違ったことをしていないのであれば、きっと助けてくれる人が居るはずって。先輩は私の人生を変えてくれた大切な人なんです。そんな風に考えられるようになって、もっと人の役に立つ仕事をしたいって考えるようになって、たまたま見つけた求人が今の会社だったんですよ。気持ちを変えるには環境も、って思ってすぐに転職しました。先輩がいらっしゃるなんて知らないままで……そしたら再会しちゃうじゃないですか。ものすごい偶然ですよ。私にとって先輩は運命の人なんだって感じました」
 僕の部屋で、僕の前に正座している彼女は、涙ぐんでいた。
 それでも凛としたその表情は美しかった。
 僕はとえば、そんな人並み以上に可愛い彼女に、しばし見とれていた。
 ああ、この顔だ。
 僕が可愛いって思ったあの顔は。
「あ、もしかして私、変なフォントになっちゃってます? 文字化けとかだったら嫌ですよ?」
 こんな状況でも彼女は場を明るくしようとしてくれる。
 計算なのか天然なのかもわからないけれど、彼女のよく通る声が、僕の胸をぐいぐいと押してきて、僕の胸のつかえが、ぽん、と取れた。
「そ、そんなことはない……よ」
 見とれてた、と言おうとして、さすがにそれはあんまりじゃないかと、セクハラじゃないかと、僕は続けて言おうとした言葉を飲み込む。
 彼女は不安そうな顔で僕のことをじっと見ている。
 照れるくらい恥ずかしい。
 でも僕は、この彼女に対して、これ以上、いい加減なままでいるわけにはいかないんだ。
 ここまでしてくれる彼女に対して僕は、離れられてしまうのが怖くて、いざその別離が訪れた時に自分がダメージを受けないようにと過剰に自衛し過ぎて、結果的に彼女を傷つけてしまっていた。
 この症状に気付いたときからずっと、僕はどこか被害者気取りでいたのかもしれない。
 でも、人と人とのつながりで、片方が壁を作ったら、もう片方も壁にぶつかってしまうんだな。
 こんな基本的なことにどうして今まで気づけなかったんだろう。
 壁の中に閉じこもっていた僕は、その壁の向こう側で壁越しに僕を見つめていてくれた人の気持ちを、ずっと無視し続けていたんだ。
 彼女があの日、不安がっていた「無視」を、僕自身が彼女に対して行っていたんだ。
「野和さん。今までごめんね」
「どうして……先輩が謝るんですか」
「いや、本当にありがとう」
「やめてください。そんな、ありがとうなんて言われると、先輩が居なくなっちゃうんじゃないかって心配になるじゃないですか」
「あ、いや、い、いなくなったりはしないよ。ずっとそばに」
 そこまで言いかけて、自分が今、とんでもないことを言い出しているんじゃないかと我に返る。
「そこでやめちゃうんですかっ?」
 野和さんは、今度は泣きながら笑った。
 僕もつられて笑った。
 いつの間にか涙も出ていて、二人揃って泣きながら笑った。

 そして一年が過ぎた。
「こんにちは」
「おや、お久しぶり、ではないんですね、今回は」
「はい。日常生活の中で漢字じゃない人が増えてきまして」
 今では仲がいい人や信頼できる人ばかりではなく、一度も言葉を交わしたことがなくとも、よく見かける人なども漢字ではなくなっている。
 毎月だった定期検診も隔月へと間隔が延びた。
「それは喜ばしいことです。じゃあ次は三ヶ月後にして様子を見てみましょうか。もちろん、何かあったらいつでもいらしてください」
「はい。ありがとうございます」
 診察室を出ると、谷田君が待っていた。
「どうでした?」
「次回は三ヶ月後でいいってよ」
「それはある意味、残念。忙しい営業の合間の貴重な息抜きタイムだったのに」
 谷田君はいつものようにクセのある笑顔を浮かべる。
「谷田君、言いますねー」
「まあ冗談はこの辺にしといて、仕事再開といきますか」
「ですね」
 谷田君が言うように、ここの所ずっと仕事が忙しい。
 自動運転プロジェクトは順調で、最近は自社製品の開発に取り組んでもいる。
 視覚情報のうち危険情報を優先的に強調表示する個人用ゴーグルだ。
 もともと老人や子ども向けの商品として開発したのだが、ナビゲートシステムの会社と提携したことで危険以外の情報も展開できるようになり、全年齢層へ需要が拡大した。
 当然のように残業も増える。
 それでも頑張れる理由が今の僕にはあった。
「谷田君、先に上がります」
「お疲れ様でっす」
 会社近くの駅から、自宅方面へと向かう電車に乗る。
 あ、この人はいつも次の駅で降りる人だ。
 その前に立ち、次の駅で入れ替わりに座る。
 ああいう人が「人」じゃなく人に見えるだなんて、自分はけっこう現金なヤツだな。
 可笑しくなる。
 こういう、にやけている時など、他の人が僕と同じように僕を漢字で見てくれたら、表情がバレないのにとかさえ思えるほど、今は心にゆとりがある。

 自宅最寄りの駅で降り、駅前のスーパーで買い物をしてから自宅へと向かう。
 今の家は駅からけっこう近いのですぐに着く。
 それなのに一軒家。
 ローンを組んだとはいえ、持ち家なのは本当に今の会社さまさま。
 ありがたいことだ。
 自宅の玄関前で立ち止まり、深呼吸。
 扉を開けるときの、この高揚感と緊張感。
 ドアを開けて、閉める。
 深呼吸をもう一つ。
 静かだ――ということは、寝かしつけているのかな。
 鍵を閉めて靴を脱ぎ、リビングへと向かう。
 そして小声で「ただいま」を言う。
「おかえりなさい。先輩、今日もお疲れさま」
 妻が小声で答えてくれる。
 もういい加減「先輩」はやめてくれと言っているのだが、彼女が漢字だった期間と同じ期間は「先輩」で通させてもらうという謎の宣言をされているので、名前で呼んでもらえるのはもうちょっと先のことになるだろう。
「寝付いた?」
「うん。ちょうど今。佳那ちゃんのおとうさんったら、今日も佳那ちゃんの起きている時のお顔、見られませんでちたねー」
 妻は多分、僕らの愛娘を抱っこしたまま、あのいたずらっぽい笑顔で語りかけているのだろう。
 だけど今の僕にはそれが見えない。
 愛娘が起きていようが寝ていようが、直接には――リビングいっぱいに居座っている「家族」という漢字のせいで。
 でも今の僕には、悲観的な気持ちなんて欠片もない。
 人と人とのつながりを隔絶する壁は、自分が努力することで取り払えることを知っているから。
 「家族」というものは、今まで違う人生を歩んできた二人の人が、お互い積極的になって新たに作り上げていく必要のあるものなのだろう。
 それをこの症状に教えられた気がしている。
 そりゃプレッシャーは大きいけれど、僕はこの家族と一緒ならば、きっと乗り越えてゆけると思っている。
 もしもこの症状がなかったら僕は、結婚したってだけで「夫」になったつもりになり、娘が生まれたってだけで「父」になったつもりになり、そのなったつもりで満足してしまい、それ以上の努力をしようだなんて思わなかったかもしれない。
 気付けたということそれ自体が、僕のかけがえのない財産なんだ。
 目を閉じて妻と娘とに触れる。
 そう。
 目を閉じればいつだってその存在を感じることができる。
 見えるものだけがすべてじゃない。
 僕は二人を抱きしめて「ありがとう」と小さな声で伝えた。

<終>

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