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土俵に上がる

先週の土曜日
那須川天心の試合を観た。

昨年、
天心と武尊の試合に胸を躍らせ、
K-1びいきの私は武尊の応援をしていたが、
やっぱり、勝った天心は見事だったし、
そこから
新たなチャレンジの場、ボクシングへ向かうこと自体が
本当に敬意を払う以外の何物でもない。

土俵に上がる。

天心なんて、すでに地位も名誉もお金も
もう文句なしだと思う。
それでもまだまだ24(だっけ?)。
そこからボクシングへ転向。
もういいじゃんと思ったけど、
きっと、今のままで挑戦を辞める理由が彼にはないんだと思う。

きっと、結果云々ではなく、
チャレンジをすること自体が彼の生き方や生きがいで、
それによって、大きく成長する、レベルアップする
その喜びを知っているのだろう。

先週の試合は、それはそれは見事なものだった。
試合こそ判定で終わったものの、
芸術の域に達していたと私は感動した。

いろいろな声を聞いた。
大抵は、これから期待できるといったものだったが、
中には、しょせんキックボクシングだな。
的なものもあった。
でも、そんなことは、言われて当然だし、
結果を残さなければ(ここでいう結果はKO勝利)
そういう声は、どんなに素晴らしい試合だったとしても消えない。
そのことも全部想定している上で、
この困難な道、勝負の土俵に上がることに
改めて尊敬の念を抱いた。

土俵に上がるということは、
その時点で、結果が一つのゴールであり
それを宣言したからには、それを聞く人からは
期待もされるわけで、
結果がでなければ、あれくらいのレベルで戦う人は
努力が足りないなんてことは言われることはなくて、
弱い
の一言で片づけられる。
だって、努力の量は、人一倍人二倍三倍が大前提だから。
だって土俵に上がったんでしょ?
努力はするでしょ。
で、努力した者同士で戦うわけだから、
勝者のみが強いと称賛される、
シンプルで残酷な世界。

私のようなごくごく普通のサラリーマンには
彼のような大きな舞台は用意されていないけど、
土俵に上がることはできる。
土俵に上がらないで逃げることもできる。
その選択肢は誰しも持ってて、
土俵に上がれば、努力は約束されていて、
それを周囲は期待するし、
結果のみを見られて評価される。
だから、本気の土俵に上がるのは本当に怖い。
怖いけど、上がったほうがいいのは当然分かっている。

思い返してみても、土俵に上がって
結果が良くても悪くても、上がったことを後悔したことなんてなかった。
上がったことで得た経験が
というか
土俵に上がったことで得た経験しか、
今の自分には活きてないとすら言える。

ちゃんと自分が頑張ると約束して、
そこからやるしかないと覚悟をするから
ちゃんと壁にぶち当たる。
自分の限界のようなものもたくさん見たし、
それによって、自分ひとりの力なんて大したものじゃないと
思い知らされて、
誰かの支えのありがたさを知る。
土俵に上がってなければ、限界なんて知らずに済んだ。
でも、その限界を知ったがために、
それを乗り越えるために頭と足と手と、体全部を使って
もがいた。
そしたら、限界はいつの間にか超えてたりしてた。

でも限界を超えることや結果を残すことがゴールでないことも知った。

土俵に上がるというのは、
結果を目的とするんじゃなくて、
結果が出て、良い結果も悪い結果も、出るのはそのときの運だったりする。
大事なのは、そこまでのプロセス。
確実に言えることは、努力し、もがいている間に、
知らず知らずのうちに、だいぶ知らないところまで
階段を上っていたという事実。
この事実はくつがえらない。
ちゃんと自分の財産になっている。

だから、土俵に上がることは、
人生において、とってもとっても重要なこと。

とはいえ、天心の上がる土俵は
やっぱり輝いていて、観るものをワクワクドキドキさせて、
熱狂させてくれて、
そして、自分も自分なりの土俵に上がらなきゃ
という気にさせてくれる。

次の天心の試合が楽しみ。
同時に、武尊の復帰戦も決まり、武尊は武尊の新たな土俵に
上がるわけで、
それもまた楽しみで、きっとどんな結果であろうと
そのもがいている姿に感動し、熱狂するだろう。

格闘技、最高!


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