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幸福感をつかむ天才

昔々のこと。
私が幼稚園か、それよりも小さかった頃。
団地に住んでた。

団地の前には、その棟に住む人の車が縦列に並ぶように駐車場があった。
子どもは何でも遊び道具にする。

私は、車と車の間にあった水たまりで友達と二人で遊んでいた。
おもちゃの小さなスコップを使って、必死に水たまりの水を
汲んで、どこかに捨てて、とにかく水たまりをなくそうと必死だった。

友達と二人で夢中になってたばかりに
その止まっていた車が動き出しているのに気づかなかった。

車の運転手も小さくてかわいい私の姿が見えなかったのだろう。
車に対して背中を向けていた私も当然、気づかず、
車がバックしてきた瞬間に私の後頭部に車がぶつかってしまった。

そのときのことを友達が覚えてて、
「お前、あのときどうしたか覚えてる?」
私はその事実すら覚えてない。

「へへへ。」
と笑って、引き続き水を汲む作業をやめなかったそうだ。

何にも覚えてないけど、きっとその運転手の大人の方や周囲の大人は
きっと心配して、親もかけつけて、割と大事のようなことになっていたんだと思う。

とにかく子どもは夢中になって、時間を溶かすのが得意。
そして、今、改めて疑問に思うのは、水を汲んで汲んで汲んで
・・・・・
で?
ってこと。
なぜその作業をしたいと思ったんだろうか。
水を汲み切ったら満足するんだろうか。
誰かに頼まれて水をなくしてくれと言われたわけじゃない。

でも、きっとその当時の、かわいい私は
そこに使命感などを感じてやってたはずだ。

その水たまりをなくしたら、
はい、次!とばかりに、別の水たまりを探しに行ったんだろう。


こういう風に傍から見ると、
えっ、それって意味ある?
なんで、そんなことに夢中になるの?って。

大人になると、
意味があることに時間をかけたいと思う。
逆に意味がないようなことには時間をかけたくないと思う。
いや違う。一般的に意味があるとされることに時間を投資し、
一般的に意味があるとはされないことには時間を投資すると
誰かに怒られたり、注意されたり、変な目で見られたりする。
それが嫌だから、なんとなく正しいとされることにだけ時間を使うように心がける。

私は思うに、意味とかそういうのはぜ~んぶ後付けでいいと思う。
その時の直感で、そこに夢中になっていたいと思ったら
それは100%本物の気持ち。そこに意味とかはなくてもいい。
結果、その夢中になっていることが何らかの形で役に立つことは
あるかもしれない。
そして、逆にな~んの役にも立たないかもしれない。(今のところは)

夢中になる、とか、没頭する とか、
そうなる時は、あまり理屈などはない。
気が付いたら没頭してた。
これがまさに時間が溶けるということ。


なぜこんなことを改めて思い出して、考えたかというと、
ある経験をしたからだ。
つい最近、「小学生でも99×99まで暗算できるドリル」という書籍を購入した。
暗算ができるって?
ほんとに?
と思って購入。
ここまでは、暗算ができるようになる というスキルを身につけたい。意味があることに時間を費やしたいと思っている。

大事なのはここから。
あらかじめ言っておくと、私は暗算は好きではない。
語弊がある言い方なので、言い換えると、暗算という選択肢を選ばない。
暗算は、リスクが高いと考えるから。
ひっ算が必要なものはひっ算でやればいい。と思う堅実派。
でも、工夫はする。
たとえば25×32という計算は、ひっ算はしない。
頭の中で25を2倍して50。50を2倍して100。
100を2倍して200。・・・
ということはする。
なぜなら、授業をしていると、ふいに、その場でサッと計算する必要に
迫られることがあって、
そういう場面に多く遭遇しているうちに自然と身についた。
数字に触れる機会がある人なら、きっとそういうことはやっていると思う。

で、本題に戻るが、
この書籍は、2桁×2桁が見事にできるようになるというもので、
私は、堅実派で、年齢的にも、こんな自分ができるわけない。
と思いながら、ただ、なんとなく、その時のノリで購入した。

購入したからには、やるでしょう。
やってみるでしょう。
やってみたら、面白い。

でも、簡単にできるわけではない。

そして、そのことを面白いと感じた。

頭の中の、今まで使ったことのない部分を確実に使っているのが分かる。

だから割としんどい。
この【割としんどい】という負荷が心地よい。
どんどん次の問題にチャレンジしてみる。
自分でストップウォッチを持って、暗算してみる。
意外と正答率も高い(というかほぼ100%)。
(自慢じゃないよ。この本がすごいだけ)

気が付くと数週間、毎日やってる。
(と言っても毎日、寝る前くらいに10分くらい)
ただ、暗算を速くできるようになるというよりは、
この負荷が心地よくてやっているの方が勝っている。

たぶん、今は、10問くらいの2桁×2桁の計算は暗算で
1分半とか。だから、きっと平均的な40台後半の大人の中では
真ん中より上だと思う。
なるほど、よし。暗算が速くなった。
って思うと思うじゃないですか。

違った。

結構速くなった時点で、
少しずつ興味が薄れてきちゃった。

何コレ?って思った。
あれだけ夢中になってたのに。
暗算が速くなって、いわゆるスキルのようなものを身につけて
達成感的なものが得られるのかと思いきや、
達成感の前に、「あれ、もう終わり?」
の気持ちの方が強くなってきた。

改めて思う。
意味は後付け。
夢中になっている時間そのものに幸福感があって、
いわゆるゴールめいたものがやってきたら、
そりゃ、何か達成感のようなものは1分半を切ったあたりで
きっと来てたんだと思うけど、
今回のこの件に関しては、「あとはただ記録を更新するだけか。」
ということが見えた瞬間に興味が薄れた。


何かに夢中になっている瞬間。
ここに幸福感のようなものを満たす何かがあって、
その先にある結果のようなものは、あとからついてくるだけ。

だから、【何かを成功させるために】
ということのみを目的としてやると、
もっと言えば、そのプロセスを楽しむということを度外視して、
結果だけ求めていると、どこにも幸福感のようなものがやってこないような
気がする。

これは、あくまでも私が感じたもので、
暗算が悪いといっているわけでも、意味がないといっているわけでもなくて、
【何かを手にすることができる】
とか
【成果として現れる】
ということのみを目指して、途中過程を楽しむことを省くと
きっとスタートからゴールまでは楽しくなくて、
ゴールに来ても、一瞬の達成感はあったとしても、
幸福だったかと言われると、そうじゃないんじゃないかなと
思うというお話。


幼い頃の、かわいい私が夢中になっていた姿。
その成果は何にもないけど、
きっとその当時のかわいい私は、水を汲んでいる
夢中の時間の中に、傍から見てもな~んにも価値がないと思われていることなんだけど、
極上の幸福感を味わっていたんだなと思う。

そういう意味で、子どもは幸福感というものに対して、
アンテナの張り方が天才だなと思う。
そして、大人になった今も、そのアンテナを大事にしたいなと思う。
傍から見て、
「あいつ、バカなことやってるな」
ってことに夢中になれることをこれからも探していたい。

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