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生皮/【読書report】

セクハラにおける、被害者と加害者の意識があきれるほど違うことを、
見事に描き出した作品だと思った。
加害者は、かならずしも男性だけとは限らないのだが、とりあえず一番大きいのは、男性と女性の体の違い、ではないか?と思わされた。
著者がそういうことを言いたいかどうかわからないが私の連想。

女性は凹で男性は凸である。
それは変えようのない人体の構造。

凹としての体感は、凸の体感と全く異なる。
セックスは共同作業であるがゆえに、また一体感を伴うゆえに、相手もまた自分と同じ体験をしていると思いがちなのかもしれない。
しかし、それは幻想なのだろう。

凹としての体感は、
受け入れる、包み込むといった、快く主体的なものだけではない。
貫かれる、ねじ込まれる、押し込まれるといった、痛みや恐怖を伴う受け身的なものもありうるのだ。

凸としての体感はどうだろう。
入れる、入る、突き立てる、貫く、突っ込む、といった積極的な表現になりがちなこと、何より、剣や鉾が男性器の象徴であるように、非常に攻撃的かつ支配的なものなのだ。

また、女性は、相手や状況によって快にもなれば不快にもなるのに対して、男性は相手や状況がどうであろうと、不快や痛みにさらされることはないわけで、快か、より快か…、という違いしかないのではないか。

それは、体の感覚なので、お互いよほど言葉を尽くして教え合わないと、理解するのは至難の業だ。
男性が、「多少無理やりでも騒ぐほどではない」などと言えてしまうのは、
複雑な女性の体のことが全くわからないから、というのも大きいのではないだろうか。

また、残念ながら女性同士でもなかなかそれはわからない。常に自分が満足できるセックスをしてきた女性には、不快な体験としてのセックスは、自分のそれと全く違うものであるということがあまり理解できない。
いやもちろん、男性に比べたら容易に想像できるはずだが、そこは認めたくない心理も働いて、「過剰に騒ぎ立てる」被害女性を軽蔑の目で見てしまう、という一層悲しいことが起こる。
逆に、望まないセックスが日常である女性から見ても同様かもしれない。

加害者である小説講師、月島光一にとって、受講生との性行為は、小説をアップデートさせるために必要な行程だとでも思っているような描写がある。もう一人の被害者、小荒間洋子との一夜についての振り返りだ。

「性欲がまったくなかったとは言えないが、それだけじゃなかった。彼女を抱くことで、確信したかったんだ、彼女がこれから書く小説は間違いなくいいものになると。注入したかったんだ、俺の力を。愛、と言い換えることもできるだろう。それが伝わったからこそ、彼女は抵抗をやめたんじゃなかったのか」

嫌がる相手に無理強いして喜ぶような倒錯的なものではない。
ただ、相手を対等ではなく、自分の支配欲を満たすコマのように使う、非常に一方的でエゴイスティックな考えだ。
女性は、セックスを支配のために使うことはできない。
容易に、支配-被支配の関係に置かれてしまう。
そのようなものを、「愛」とは呼べない。いうなれば「自己愛」。
そう、この月島、という人物は非常にナルシスティックなキャラクターなのである。確かに才能があり、容姿にも自信があり、経済的にも十分に成功しているのだから、自己愛的にならざるをえない。おそらくある時期、認めてもらえなかった過去があるのかもしれない。
自分の力を見せつけたくて、受講生たちは格好の対象になる。

しかしながら、被害者洋子の方の体験は、まったく別の物となっている。
「了解などしていなかった。私はいやだった。月島に触られることが気持ち悪くてしかたなかった。(略)月島に無理やりそんなことをされているという事実に衝撃を受けていて、抵抗すれば、それが事実よりももっとどうしようもない事実になってしまうように思えた。そのどうしようもない事実は月島を傷つけるだろう―、いや、彼よりももっと私自身を傷つけるだろう。月島を信じてきた私、月島との出会いに感謝してきた私、月島のおかげで小説と言うものを理解していった私、そうして獲得した方法、私の小説をも」

これは、「嫌なら抵抗すればよかったのに」という、よく言われる被害者への攻撃への説明になるだろうか。

人は誰しも自分が安全であることを前提に生活をしている。
突然、被害に遭うことなど想定されておらず、そのような状況に対しては否認が働く。
セクハラの被害者は、多くが大人の女性である。色々な社会通念を学んできており、性体験もある場合が多い。
「何てことない」「皆やっていることかもしれない」「相手には悪気はない」「断ると後から面倒なことに」
などなど、何とか今置かれている状況を正当化したいという意思が働いてしまうのだ。
暴行とは違い、行為自体は命の危機を感じるタイプのものではないことも多いからなおさらだろう。

これは、セクハラは、結果的にはレイプであるけれども、レイプとは根本的に違う構造だということがよくわかる。
社会的な地位、人間関係、そういったものを巧みに利用し、断る意志を失わせるという力が働くのだ。
教師と生徒はその典型だ。
まずもって、上下関係があり、信頼関係があり、日常的な関係がある。
「そんなことをする人ではないはず」「きっとよくあること」と思わなければ、日常生活が崩壊してしまう。
もっと、わかりやすく乱暴であればまだしも、大抵相手は高圧的であっても暴力的ではなく、説明上手だったりして、「最終的に判断したのは自分」という状況に持って行くのであろう。加害者の中でも「無理強いではない」と記憶されるし、そのことが、なおさら被害者を傷つける。
「ホテルに着いていく女も女」、「7年もたって何で今更告発?」という、SNSの揶揄は、そういったことに対しての無知である。

この構造的な犯罪は、どうしたらなくなるのだろう。
男女の間に体の差がある限り、男女差別も性犯罪もなくならないのではないだろうかと絶望的な気持ちになる。
ただし一方に男女の美しく優しい性愛の世界があるのも確かであり、それは男女に差があるからこそ生まれるものだ。

つまり、唯一の道は、お互いの差異を学び合う、というシンプルかつ当たり前の方法、ということになるのだろうか。
問題は、それを学ぶ機会が今の日本にはどこを見てもないことなのだろう。


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