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日々よしなしごと~書道じゃなくて習字~

冒頭の写真、恥ずかしながら私の習字を先生に見てもらい赤を入れてもらったもの。
習字を習い始めて8年くらいなろうか。まさに60の手習いだった。

習字教室では、課題を提出し書道機関紙のような冊子に発表され、進級したかどうかの結果が掲載される。生徒たちはそれを見て次の段階に向けて奮起し?、新たな課題に挑戦し提出する。級から段へ、そして準師範とか、師範とかを目指す・・・(と思う)

私が通う習字教室も、もちろん同じようなシステムがあるが、私は最初からその課題提出はせず、先生のお手本を書いてみてもらにうだけにしたいとお願いした。つまり進級とか書道家を目指して習字を習いたいのではない、ということをお許しいただき習い始めた。
筆で字をちゃんと書けるようになりたい、例えば芳名録などに臆することなく、筆で自分の名前をきれいに(できれば)書けるようになりたい、そういうことだった。それでもいいですよと、以来月3回教室に通わせてもらっている。今でも目的は変わらない。

写真のような楷書、行書の太字は教室で書き、宿題に先生に細字のお手本を書いていただき、家で書いたものを持っていき見てもらう、ということを繰り返している。他の方たちが大きな長い紙に太い筆で漢文をダイナミックに書いていらっしゃるその横で、すごいなあと思いながら、私は相変わらず子供のように半紙に楷書や行書のお手本を写している。

目指したい境地というか文字のスタイルがないわけない。それは、あえて言えば、筆しかなかった時代の人のように、自然でいてそれなりの個性もある文字を書けたらいいなと思う。書ではなく、伝達手段としての文字というか。昔の人の手紙などに見られる、読みやすくしかも美しいというか味のある文字というか。

つまり、私はいつまでも「習字」のままで「書道」にはならない。

これは、私にとって着物を着ることも同じかもしれない。
茶道を再開してから、お茶を習うなら着物も着れなくてはいけないと気づいた。そうはいっても、そのために着付け教室に行くのもためらわれた。
お金も時間もさらに必要になってくるし・・・
ならばと選んだのはyoutube先生。探すといっぱいあってその中で選んだ着方の自習を重ねて、最初は時間もかかったし、へたくそだったが何とか着れるようになると、お茶の稽古には着物を着て行こうと決めた。
それからは、着物を着るのはお茶を習うのと同じ修行と位置付けた。
おかげで着る時間も短くなり、着方も時々は褒められるほどになり、なにより着物を着るということにストレスを感じなくなった。
そして自分なりの着物のスタイルも少しずつできてたように思う。

そもそも、字が下手だったし、着物は着れてもどんくさかった私が目指したのは、まずは可もなく不可もなくという普通のレベル。特別なことではなく自分の身に付いた動作であり、「当たり前」にできるこということ。
書道家になりたいとか、着物を着ておしゃれしたいというのでもない。
文字は見やすく、着物は見苦しくなく自然な着姿であること・・・

習い事の目的はいろいろあると思うけど、ひたすら進級を目指さなくても
「上等な普通」を目指してもいいんじゃないかな。
それだって、今でも先生に見てもらうと基本ラインでも赤が入るし、時々いいですよと〇をもらったりするとやっぱりうれしい。普通にボールペンで書くのも、以前ほどの汚さではなくった(と思う)

続けていると、それなりに分かってくることもあるし、楽しくなる。
こうやって、ムダみたいにみえることも続けられて幸せだなあ・・・
そうだった。 本当はこれを一番書きたかったことだったんだ。

がしかし、「上等な普通」もなかなか奥が深いぞよ。


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