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東北の未来をつくるnight:羽山暁子トーク集~新卒から現在までの軌跡~

2023年8月3日に株式会社マザーハウス様主催のトークイベント「東北の未来をつくるnighat」に当社代表の羽山が登壇しました。今回は羽山の人生グラフを使用し、マザーハウスの山崎副社長が羽山にインタビューを行うという形式で繰り広げられたトークの一部を書き起こしてお届けします。


希望しない営業職で大号泣!念願の人事部に異動も、リーダー失格の辛い経験


営業職として就職し、人事に移動するまでの人生グラフ

羽山:新卒でインテリジェンス(現パーソル)にキャリアコンサルタント希望で入社したのですが、入社式当日に当時商品化されたばかりの求人サイトの営業にアサインされ、役員の前で「やりたくないです!」と大号泣したところから、キャリアが始まりました。

 とはいえ、やりたくないといってもしょうがないので、とりあえず3年やると決めて営業職を始めたのですが、上長に「数字を達成する意味が分かりません」と食ってかかるような面倒くさい新人でしたね。

山崎:そうこうするうちに、人事部に異動したんですよね?

羽山:そうなんです、人事部へ異動して最初にメンバーを持った時に「リーダー失格」という初めての挫折を味わいました。今までの営業職では、上長から「数字命、数字を達成しろ!」とばかり言われていたので、夜の10時に会社にいると「会社にいるなら今から1件飛び込んでくれば?」とか言われるんです。私も「わかりました!」とホストクラブに行き「店長すみません、求人ありませんか?」みたいなことをやっていたので、それがマネジメントだと思っていたんですよ。

 なので、初めてメンバーを持った時に、人事も採用人事だったので営業と同じ。学生と向き合い、そこからどれくらいの人を採用できるかなので、行動・達成できていないメンバーに対して「なんで今デスクにいるんだ、達成できていないなら学生に会って来いよ!」ということをひたすら言っていました。私はそれを愛情たっぷりの発言であり、これがマネジメントだと思っていたんです。

 そう発破をかけることで火がついて、なにくそと思って行動ができ、その子の成長に繋がると思っていましたが、ある日突然、メンバーが「会社を辞めたいです」と伝えてきてすごくびっくりしてしまったんです。今ならバカだなと思うんですけど、当時の私はなんでこんなに愛情たっぷりに成長を後押ししているのに、こんなことになるんだろうと。そして部長に呼ばれ、「お前がやっていることはお前の価値観の押し付けでしかない。お前にはメンバーを預けられないから、一回(リーダーから)剥がす」と告げられました。私はコミュニケーションが取れないんだということに、大きな衝撃を受けました。


キャリアの軸を決め転職!1日18時間働く超多忙な日々


大企業の人事からベンチャーへ転職した時の人生グラフ

山崎:ファーストキャリアって危険も孕んでいますよね。最初に教わった英語が正しいと思い込むようなものですもんね。その後、転職をなさるんですね。

羽山:そうですね。その出来事にぶち当たってから、コミュニケーションとリーダーシップの探求を自分なりに始め、歳月が過ぎ29歳になりました。女性の29歳ってライフプランの分岐点だと思っていて、これから子どもを産むか、キャリアをどうするかなど様々なことを考える年齢だと思うんです。その時に私は今後のキャリアの軸を立てるなら、人事にしようと決めたんです。入社当時は600人だったインテリジェンスもその時には8,000人になっており、大企業の人事で生きていくよりも、小さい企業の人事の方が全部でき、自分の市場価値を高められると考えてインテリジェンスを卒業しました。そして2011年に某ビッグデータを扱う、これからIPOをしていくために人事部を作ろうとしている社員40名のIT企業に転職しました。

山崎:人事の立ち上げってきつくないですか?

羽山:正直きつかったです。朝7時から夜中の1時くらいまで働いて、その後みんなで餃子でも食べに行こうか!と餃子を食べ、電車がないからタクシーで皆を連れて帰宅して旦那さんに怒られ(笑)また7時に出社するという感じの生活でしたね。

また、創業社長が誰も彼の頭の中を理解できないのに、「ビジョンを語ることは子どもっぽい、ビジョンは一人一人が発見し各自で持てばいい」という天才肌ならではの考え方の持ち主。当たり前ですが、ビジョンを各自発見できる社員なんて誰もいないし、創業者である社長の想いに呼応してメンバーはついて来ているわけです。会社がどこを目指していきたいかを明確に伝え続けなければならないということを毎日ディスカッションしながら、賃金制度を整えたり、カルチャーを作ったりなど、とにかくひたすら働き過ぎなくらい働いていましたね。当時の日記を見ると、「私の人生こんなことをやるためにあるわけじゃない」とか書いてあったので、メンタル的にも結構来ていたかも知れません(笑)。


仙台へIターン!決め手となった「ギャップ」という価値観


仙台へIターンし、キャパオーバーから復活するまでの人生グラフ

山崎:そんな状況下で仙台に入ったんですよね。詳しくきっかけを聞いてもいいですか?

羽山:その頃会社がマザーズ上場をやり切り、一部上場も果たし、入ってきた資金で組織開発を始めて、これからもっと楽しくなるぞ!という時に、パートナーが仙台に転勤したいと言い始めたんです。最初は東京と仙台なら新幹線で1時間半だから別居婚だね、なんて言っていたのですが、ふと冷静になった時に、地球上の80億人の中で彼と結婚しなかったら、私の人生に仙台に行くという選択肢はなかったわけです。彼と結婚したから仙台に行くというストーリーが出てきたのであれば、それに乗っかってみるのが結婚の醍醐味だなって思ったんですよね。

山崎:すごくポジティブですね!多くの人たちがプライベートとキャリアのはざまでどちらを取るか悩み、ライフイベントがキャリアを邪魔したと捉える方が多い気がしますが、そういう風には思わなかったですか?

羽山:そうは思わなかったですね。「迷ったら現在地よりもギャップが大きい方を選ぶ」というのが、私の価値観の中にはあるんです。大学受験の時も、いくつも受かっていたけれど本当に行きたいところに行くために、クラスでたったひとり浪人生活を選んだ結果、行きたかった大学に行けたり、私の人生を振り返ると迷った時は現在地よりギャップが大きい方を選んだ方が、人生がポジティブになるということに気づいたんです。だからギャップの大きい仙台行きを決意し、さらにギャップが大きい独立起業をしようと決めました。

かつての同僚たちが仙台へ行く前に開いてくれた壮行会


山崎
:なるほどね。それで仙台に来たけど、グラフを見るとすぐにキャパオーバーしていますね。なんかうまく行かなかったんですか?

羽山:そう、全然うまく行かなくて。女性として人事をやってきて思ったことは、組織って男性がセオリーを作ったものじゃないですか。その中に女性が無理矢理押し込められて働くことの限界を、人事としてずっと見てきたんですよね。組織に属さない、違う働き方のほうが女性はハッピーになりそうだという考えをずっと持っていたので、独立したのもあります。

 ですが、いざ独立してみると経済的な不安が押し寄せるんですよ。もちろんパートナーがいるので、いきなり食べられなくなるということはないのですが、当時すごい暑い日にアイスが食べたいなと思ったときに、目の前で「クリミナ」という500円くらいのお高めなソフトクリームが売られていたんです。それを「私、これ食べられない」って思ってしまったんですね。他にものどが渇いてコンビニに行ったのに、経済的不安から水も買えない…ということが3~4か月続いたんです。


トークイベントの様子。左は(株)マザーハウス山崎副社長

 そのくらい、当時は経済的に自立していないということにプレッシャーを感じていたので、自分がどれだけできるか分からないけれど、お声がけいただいたお仕事はとにかく何でもやっていました。そしたらある日突然キャパオーバーしてしまって。今思えばうつ状態だったのですが、二週間くらい電話も出られないし、メールの返信もできずにいたら、とうとうパートナーの方に生存確認の連絡が来るようになってしまったんですね。

山崎:どうやってその状態から抜け出したのですか?

羽山:このままじゃダメだと思って、ご迷惑をおかけしたところに謝罪に行き、お赦しをいただいたプロセスを経て、少しずつ自分のキャパシティを知り、手放すものは手放して、自分が本当に何をやるのかということを整理していきました。そのタイミングで私が幼少期から闘病を続けていた母が天に召されたんです。最後息を引き取る瞬間に、私に手を握っていてほしいという彼女の望みは叶えられなかったのですが…最後に彼女がメッセージアプリに「あっこちゃん、ありがとう」と送ってから息を引き取ってくれたことで、彼女が幸せな人生だったと思って生涯を全うできるように、娘の私が幸せだと感じる人生を歩もうとこれまで生きてきたことが、すごくやり切った感覚になり、自分を認めてあげられた感覚になったんです。言葉は適切ではないかもしれませんが、自由になった感覚がありました。自由になったからこそ、さらに自分の人生をきちんとまっすぐ、自分として生きていこうと思えました。

仙台に根を張ると決意し、フリーランスから法人へ


フリーランスから法人化までの人生グラフ

山崎:そしてその後一人でやる孤独を感じたんですね。ちょっと意外な感じがしたのですが。

羽山:自分でいうのもなんですけど、いい仕事をするんですよ(笑)。毎回命を削って仕事をしてお客様に喜んでいただけるのですが、家に帰ったあと「あの仕事最高だったね」とか「いやー良かったよね」と喜びを分かち合える相手がいないわけです。それが孤独感を増長させていく感覚があったんですね。

 アフリカの有名なことわざに「早く行きたければ一人でいけ、遠くへ行きたいならみんなでいけ」というものがあります。それを改めて考えた時にこのままフリーランスで根無し草で活動していくのも楽だけど、もっと仙台に根を張ることをしようと。法人格を持って、そこで価値があるものを生み出し続け、それを仲間と共に喜びを分かち合うということを仙台でやっていくんだ。そうストンと思う瞬間があったんです。そこから法人化をして仲間を作り、コワーキングスペースを作っていくという現在に繋がります。

仙台愛宕神社の表参道に面するPalletが入るコワーキングスペースCanvasとPalletメンバーたち


地方のジェンダーギャップと女性の経済的自立について思うこと

羽山:仙台に来た時にすごい驚いたことの一つがジェンダーギャップですね。こちらに来たての頃は知り合いがいなかったので、とにかく色んな人と会って「働くことを通して幸せに向かう社会がいいと思っているんです!」と方々で話していたら、「君面白いね、僕の秘書をやってくれない?」「うちで営業事務やらない?」と沢山のお誘いをいただいたんです。でも私は何を言われているか全然分からなくて。だって事務や秘書なんて絶対にできないのに、どうしてこんなオファーをもらうのか振り返って考えてみた時に、この地では女の子は秘書か事務をやるものだというバイアスが掛かっていて、それをお願いされているのだと初めて気づきました。

 東京から300km離れているだけで、これだけのジェンダーギャップがある。男性側にもある一方で、女性もそのジェンダーギャップに甘んじていると感じました。仙台には大変優秀な女性がたくさんいるので「○○さんならもっとできるよ!」と伝えても、「無理です、私なんかできるわけありません」って返されてしまう。けど、本当は何を大切にして、どう生きていきたいのかを聞いてみると、色々な想いや構想を持っているんです。ですから、それいいじゃんやってみたら?というと「家庭があるのでムリ」と。

 これはもしかすると間違った見解かも知れませんが、地域にいる女性の方が幼いころからジェンダーバイアスを掛けられ続けて大きくなり、成功体験があまりないが故の自己肯定感の低さというものを感じます。

 現在グラミン日本の仙台支部長をやっていて思うのが、東京と仙台の賃金格差がほぼ七掛けくらいで、更に仙台における男女の年収ベースの賃金格差をみると女性は男性の半分くらいなんです。年収でいうと230万円から250万円くらい。この年収でなにかがあり、パートナーシップが解消されシングルになると、子どもに様々な選択肢を与えることができなくなってしまうわけです。

 もちろん社会としてフォローする仕組みもありますが、やはり女性が経済的にも精神的にも自立していることがすごく大切だと考えています。私も結婚していますが、経済的自立が基盤にあるから、精神的に自立・自律的であり依存せずにいられ、パートナーと横の関係を築き、互いの意志を伝え合い、共に行動することができています。独立した時は経済的自立がなかったから、不安だったんですね。

 なのでグラミンの活動を通して、一人一人の女性が自分の人生を生き始めるということを後押ししていきたいと思っています。



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