見出し画像

勝手に解説「もうレシピ本はいらない」


大好きだったラジオ番組が3月末に終わり、予想通りたまむすびロスに陥った。

いつまでも未練がましい私は、メインパーソナリティの赤江さんの軌跡を辿るべく、赤江さんが書かれた「もうレシピ本はいらない」(著:稲垣えみ子)の解説を頼まれてもいないのに勝手に書こうと思い立つ。

※解説と感想文とレビューの違いがわからないですが、赤江さんが解説として書いてたので解説とさせてください。

                  解  説

私自身は、世に言うグルメでもなく、たくさん食べ歩いた経験もないし、繊細な味の違いを判断できる舌を持っているわけでもない。
もちろん、高級焼肉や、お寿司をご馳走してくれると聴いたら、喜んで飛びつくであろう。ただ、格付けチェックの番組で出されるような、一級品とそうで無いものとの違いを当てれる自信は全くない。

そんな私がこの本を読み、今まで食べたり、飲んだりした美味しかった記憶を思い返してみた。
知床の奥地で飲んだ冷えた缶ビール、三重県で食べた焼き貝や、実家の近くにある餃子専門店の餃子、山頂で食べたカレーメシ、卒業旅行の引率で食べた石狩焼き等が思い浮かんだ。

なんだ。
いくら庶民な生活をおくっている私といえど、もっとご紹介するに相応しい料理は食べて来たにもかかわらず(数は少ないと言えど)思い出すのは全て1,000円あれば食べれるものばかり。
もちろん、今、同じものを食べても同じように感動できるかは分からない。
誰とどんなシチュエーションで食べたかが大きく関わっているのだろう。
ただ、少なくとも私の美味しい記憶はお金がかからないみたいだ。

逆説的なエピソードとして昨年、静岡に住む両親が北海道に旅行に来た事を思い出す。
十数年ぶりに北海道に来られる両親をもてなそうといつもより背伸びをして、お寿司、焼肉、高級バイキングといった具合にもてなした。
しかし、私も両親も、味を堪能して幸福感を味わったと言うより、これらのご馳走を何とか堪能しなければいけないという義務感に似たようなものにかられ、一生懸命食べた。そして、食べ疲れていた。
まさに、美味しいものをたくさん食べないと、旅行も人生も満喫できないよと言った呪縛に囚われていたかのように。

思い込みの呪縛

この本を読んで、知らず知らずに自らにかけられていた呪縛が何と多いことかと思い知らされる。
毎日違うものを食べないといけないといった呪縛。
道具を揃えないと、料理が作れないといった呪縛。
そしてレシピ本を見なければ料理が美味しくできないという呪縛。
何も呪縛は料理に限ったことではないのだろう。

お金が無ければ幸せになれないといった呪縛が代表的なように、
世の中、あたかも幸せになるモデルケースがあり、
皆がそのモデルケースに近づけれるよう、日々追いかけているようにも思える。
幸せの形は、モデルケースで示せないほど、千差万別なのに。

まあ、こんな事を私が言ったら、それは単に負け犬の遠吠えにも聞こえてしまうが、稲垣さんが言うから説得力がある。大手新聞社を早期対象して、お金に頼らない、そして極力、電気にも頼らない、そんな生活を楽しく過ごしている事がよく伝わってくる。

私が大事にしている<人間万事塞翁が馬>と言う言葉がある。
意味は、「一見、不運に思えたことが幸運につながったり、その逆だったりすることのたとえ。幸運か不運かは容易に判断しがたい、ということ。」

調味料が無いからこそ、素材の美味しさを感じる事ができ、
道具がないから、工夫する力が身につく。
そして、レシピ本が無いから、自分に合った味付けの特別な一皿が出来上がる。

※最後に本書で特に共感を感じた文章を二つ

P231
思うに、人には身の丈に合った道具というものがあるのです。
豊かさとは、よりたくさんのもの、より高価なものを持っていることではなくて、自分が十分に使いこなせる範囲の道具を持ち、その良さを日々十二分に生かしながら「共に生きる」という事なのではないでしょうか。

P86
そう、大きな幸せは小さな幸せを見えなくするのである。
そのうちに、見えないだけだということも忘れてしまう。
小さな幸せなど全く存在しないかのように思い始める。
そして、さらなる大きな幸せばかりを求めるようになる。
でも本当は、小さな幸せの中に無限の世界がどこまでも広がっているのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?