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おじさん構文について考える

いくつかのSNSをそれぞれのテーマでやっている。
noteのテーマは「ことば」。
という訳で、先日話題になった「おじさん構文」について、あれこれと考えを巡らせてみた。

まず、この文章で言いたいことを提示しておく。

①文体には罪はない
②あのブログはプロの文筆家が「私が書きました」と、堂々と言えるクオリティなのか?

この2点について、書いていこうと思う。

①文体には罪はない

いわゆる「おじさん構文、キモッ」みたいな、ツイートなどについて。

誰もが謝罪なり、反論なりが書かれていると思った文章を読んでみると、あの文体だったことに苛々して、文体を揶揄する声が上がったのも仕方がない。
反論より謝罪が期待されているところに、あの軽薄な文章。
「悪いことをした自覚はないのか!」という声が上がるのは当然だろう。

要はTPOで、例えば件の評論家が普段書いているらしい、食べ物についてなら、ああいう軽いノリが良い、と思う人たちもいるだろう。
(個人的には食べ物を軽く扱うのは好きではないが)

あの独特の軽さ、冗長さ、妙なテンションの高さはあの世代特有のものだと思う。
各世代で、格好いいと思う言い回しや表現は違う。
今の若い方が読んだら、「なんで昔はこういう言葉遣いが良かったんだろう?」と思うかもしれない。

でも、文章に限らず、ファッションや音楽などでも、過去からの流れや社会背景があって、流行が生み出される。
その時代を体験していないと理解し得ないバックボーンもあるので、ひとつの例だけで、ある世代の流行や文化を批判するのは違うんじゃないかな?と思った。

ただし、プロならアップデートしようよ、と思うし、上にも書いたTPOだ。

②あのブログはプロの文筆家が「私が書きました」と、堂々と言えるクオリティなのか?

謝罪には謝罪に相応しい言葉遣いがある。
ひらがなに長音表記、なんて、小学校1年生で習う日本語の基本も守らずに書いた文を、真面目な気持ちを書いたものと受け止めてもらえるわけがない。

謝罪のためにブログを書いたとしたら、何故、誠実さの感じられない文体を選んだのだろう?
「このくらいセクハラにならない」と思っていそうだけど、今の時代はそうじゃない。
文体だけでなく、世の風潮についてもアップデートしないと。
それに、もし被害者に対して悪いことをした自覚がないにせよ、同業者には迷惑をかけたんでしょう?とも思う。

悪いことをした自覚があり、
自分の文章が他人に与える印象をわかった上で、
あれを書いたとしたら…とんだサイコパスでしょ。

そして、何より許せないのは「文字を書く仕事だから、いくらでも長く書けるんだよねー」だかって部分。

文章のプロは、何かを伝えるために文字を綴っているのであり、本当に伝えたいことの妨げになる部分は、推敲して削ってんだよ。
長く書くのは逆に、素人でもできんだよ。

よくその文章と一緒に、自分の名前や顔写真を出せたな、プロとして恥ずかしくないのか!と思う。
しかも酒飲んで書いてるって…酔いが醒めてから読み返して、文章書いてお金もらって生活してる者として問題ないと判断してから出せよ。

なんかこの程度の人が、文章を書く仕事をしてる、っていうのが、元物書き志望として一番気持ち悪いなぁ…。

…というのが、今回の「おじさん構文事件」についての、私の感想でした。
内容的に、硬めの「ちゃんとした文章」を書こうとしたけど、どんどん崩れてきたので、この辺りで筆を置きます。

注)発端になった出来事の是非などは、自分が見聞きしたわけでもないので、どちらサイドも支持するつもりはありません。


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