桃を描いたら成人向けコンテンツに指定された件|絵を描くことで思考する #03
「で、何を描くか?」という問題である。
「で、何を描くか?」問題はわが日常に唐突に現れ、厳然とそこに在った。
「一対一のレッスンだし、私はLilyさんが描きたいものを描くのがいいと思うんですよ。とはいえ最初だから、大きすぎず、シンプルな形状のものがいいです。たとえば野菜や果実。デラウェアまでいくと複雑で、林檎とか。サイズもそれくらいのものが描きやすいと思います」
描きたいものを描くがよろしいーーこのひと言、たったひと言が、指針として与えられたことが、私の世界の見かたをすっかり変えることになった。
具体的には、地点Aから地点Bへと移動することのみを目的として漫然と歩いていた街の景色が変わる。林檎くらいのサイズのいろんなオブジェクトが目に留まるようになるし、それを「描きやすそうか?」そもそも「描くために持って帰ることができるのか?」という目で見るようになる。感性アンテナをユンユンさせた世界は賑やかだ。これはもう、B.C.(Before Christ)/A.C.(After Christ)ばりの転換ゆえ、この事象を「B.H.(Before Hiromi)/A.H.(After Hiromi)」と呼んでいきたい。
しかし、そもそも「描きたい」とは何なのか? 「描きたい」という欲望の正体を言語化するのは一筋縄ではいかない哲学の問いゆえ、追い追い考えていくことになるが、現時点では「かわいい〜!」とか「変なの〜!」とか、直感的に声が出るような心の動かされ方をした対象とでもしておく。ちなみに、目をぎらつかせながら街を歩くようになった私が最も描きたいと思ったものは、路傍の地蔵で見かけた瓢箪だった。しかし、供物をパクるわけにはいかない。
本格的なレッスンの初回(=第1回)、私は桃と向き合っていた。桃、やっぱり可愛いからね。スーパーの桃売り場で、あちらから眺め、こちらから眺め、あの桃の桃色のバランスがいいだの、割れかたがきれいだの、勝手な基準で選評し、いったん冷静になるため肉を買いにいったりし、再び戻って彷徨し、とうとう選び取ったとっておきの桃である。万引きGメンにマークされていたとしても一片の悔いもない。Gメンには申し訳なかったけれども。
描くにあたっては、まず姿勢を正す。その姿勢で見たときにいい感じに見えるよう桃を置く。見るポジションが変わると陰影の見え方が変わるから、できるだけ姿勢を保って描くそうだ。なるほど。桃と私のポジションが決まった。
メモ帳のように使うスケッチブックに大まかな構図を描く。一枚の紙という平面のなかで、どこに桃を置き、どれくらいの大きさで描き、どこに余白を取るか。自分にとって心地いい構図を決める。決まったら本番のスケッチブックにいま決めた構図を配置する。
濃い鉛筆からはじめて、陰影をつくり、鉛筆をこすり、練りゴムを当てて光の当たっているところを際立たせ、薄い鉛筆に持ち換えてさらに同じように作業を続ける。
裕美師匠は画面越しに私の手元をずっと見守っていて、鉛筆が進むのに合わせて都度ごと声をかけてくれる。
「色や柄の濃淡を描くときと、陰影の濃淡を描くときは意識を切り替えるといいですよ」
「(桃の表面の)光がよく見えてこないときは、光出てこい!って頭のなかで唱えながらよく観察するとけっこう効果があります。嘘みたいだけど」
「滑らかに見える表面もでこぼこしていて陰があるはずなので、それをよく観察してください」
最初、ただの丸い線だったものが、桃らしくなっていく。九十分。絵画レッスン初の作品が仕上がった。一つの桃をこんなに観察し尽くしたのは、大袈裟でなく人生で初めてだ。
かつて吉村萬壱先生のインタビューで読み、ずっと心に残っている言葉がある。吉村先生のこの言葉も、私がもう一度絵を習おうと決めた大きな動機だ。
表現とは、全力で捉えようとすることだ。全力で捉えようとしてもなお、こぼれ落ちてしまう。それが表現の宿命だ。でも挑む、あきらめないガッツを持つものが芸術家だ。
話す気力もないほどやつれ果てた私の前で、モデルの桃はまだ若い芳香を放ちながらどっしりとテーブルの上でポーズを取り続けていた。描き終わったらすぐに食べてやろう。そう考えていたのに、とてもそんな気持ちにはなれなかった。あんまりじっと見つめたせいなのか、不思議な愛着が芽生えていたのである。
追記
後日、私の桃の絵が「X」の「アダルトコンテンツ指定」に引っかかり表示されなくなるという事件が起きた。同僚に打ち明けたら、「お尻っぽいからですかね(真顔)」ということだった。なんでやねん!
文・絵:編集Lily
■ Tokyo Story:編集者の生活|編集Lily
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