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A man

わたしは、毎日、父母の帰りをおじいちゃんと待っていた。

おじいちゃんはいつも文字を彫っていた。

トン、トンと。

文字を木に刻み、藍で染めて金箔を貼る。その深い藍の色が文字を際立たせる。

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般若心経 平成八年三月彼岸 金沢英夫

おじいちゃんのお新盆。その日は家族みんなで近くのビアガーデンにいた。わたしは中学2年生だった。天気の良い日で、外で大人たちはビールを飲んでいた。わたしは一人、暇を持て余していた。父が初めて携帯電話を買ったので、いじっていた。留守電のメッセージがあったので、そのボタンを押してみた。耳に当てて見ると、何か言っている。お経が聞こえた。不思議だなと思い、画面をよくみて見る。もう一つメッセージがあった。今度はカラスの鳴き声だった。発信先は不明。家族みんなも何も知らない。みんなでおじいちゃんが帰ってきたんだねって言いながら、そのままお新盆を終えた。

おじいちゃんは突然この世からいなくなった。宿泊先の温泉で眠ってしまったようだ。その時の様子はおじいちゃんにしかわからない。


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この一七五文字は、北村閣下がメレヨン島に上陸して、一周年の感懐の漢詩であり、昭和四十一年発行の、メレヨン島「生と死の記録」を入手した時拝見し、メレヨン島を想い出す時は、何時も心の隅に残っていた。

幅五十糎、長さ一五三糎の板を、南の方向に向けて台の上に乗せ、ノミとつちを板の中央に置き、塩を板の四角に指でつまんで清め、お米に清酒を供えて、どうか無事に完成できるようにと祈った。

まず中央の「嶋」という字にノミを打ち込んだ。トン、トンとノミを打つつちの音が、赤く咲き始めた桜の枝を通して、青い空に吸い込まれていく。刻字の線が細く慎重にしないと欠けそうである。店の方から私を呼ぶ声がする。今冬の厳しい寒さで、クリーニングの量が多く、昼間から刻字に取り組んでいられない。夕食後台の前に座り、合掌してノミを持った。「豪気堂堂」の最初の文字に挑戦する。北村閣下が、「豪気堂堂」の気風をみなぎらせて、サイパン島から空路メレヨン島に上陸したのは、昭和十九年六月一日であった。北村閣下が、「豪気堂堂」とメレヨン島に着任した気持ちと同じように、我々も釜山出航以来寸時も休みなく、敵潜水艦に狙われ、四十日目に漸く、あれがこれから上陸する島だと、松江丸の船上からメレヨン島を見、手渡された実砲を、腰の弾薬入れにその重さを感じ、小銭を手にして身の引き締まる思いがし、この島を護り、戦争に必ず勝つのだと、メレヨン島の緑がぐんぐんと近づく大発(舟艇)の上で、大きく息を吸った時の事が鮮明に浮かび、ノミを打つ手に力が入る。

最初の予定では、毎晩三文字ずつ彫ればと、いとも簡単に思っていたが、二日置きくらいにある会合の為に反古になり、六文字彫らないと間に合わないと、仕事を終えて九時頃から彫り始め、気がつくと十二時を廻っていた。治ったと思った右腕がまた痛みだし、治療を続けながら、掘り進む字によって、その時々のメレヨンの状況が目のあたりに浮かび、やせこけて杖をつきながらも、宿かりを拾い歩く亡き戦友の姿が目先にちらつき、私自身も、ねずみを食べたお陰で生き延びたのだと思うと、ノミを握ったまま、飛び散った白い木片が、さんご礁に見えるくらい、板の上に涙が落ちていた。

明け方の二時、三時まで刻んでいた日が連続した晩だった。くもが天井から頭に降りて来て、毛の中をモソモソと歩き回っている。うるさいくもだなと、モソモソしてる処を手でつかんで見たがくもはいない。気のせいか、と刻んでいると、またモソモソと歩き回る。今度は逃がさないぞと、両手でつかんでもいない。三回目に漸くこれは神経がだいぶ疲れているだろうなと気付き、片付けもしないで床に入った。

これが完成したら、メレヨン島の慰霊碑のある福山の護国神社に奉納しよう。それが北村閣下を始め、亡き5千余の御霊の慰霊につながるのであったならと思い、一ノミ、一ノミに心を込めて完成した時、ああ、メレヨン島の亡き戦友が加護してくれたと、思わず手を合わせていた。

引用文献:金沢英夫(1988)『メレヨン島生還記』P257(株)アルププロ
メレヨン島最高責任者 北村閣下の漢詩より

わたしは今になっておじいちゃんの想いを読み返し、おじいちゃんがどんな想いで文字を彫っていたのか知る。北村閣下は、戦後二年後に、武人として責任を取られ、自らの死を選んだ。この刻字はおじいちゃんの想いが届き、現在は北村閣下の眠る菩提寺に納められている。いつか日本に帰ったら必ず訪れたい。


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自分の想いを英語で表現できず、わたしはなんなのかと葛藤していた頃 2013

おじいちゃんはとても悲しかった。そのことは小さなわたしでも、感じていた。父と母は、一生懸命働いていた。わたしは兄達と歳が離れていることもあり、一人、おじいちゃんといるしかなかった。父と母の車の音は遠くからでもすぐにわかった。

日本に帰って来ても、忘れられない戦友を想う気持ち。それは精神的にどれだけ病んでいたのか、わたしには想像がつかない。でも、どんな時でもおじいちゃんはめげなかった。お経を拠り所にし、メレヨン島の魂が沈まり、五千余柱の御霊が安らかに成仏する為に供養を毎日行なっていた。一生懸命生きて、メレヨン島の為に生き抜いたのだ。

先日、母がわたしにごめんねと謝った。あの時は寂しかったかもしれないねって。わたしは母と話していて気付き始める。母と父はこのおじいちゃんと生活をして来たんだから、本当に大変だったと思う。あの時は、みんなが寂しかったけど、今はそれぞれの愛の形がそこにあったのが見える。そして、おじいちゃんは、本当は家族と仲良く笑って過ごしたかったんだと思う。

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Kualoa Regional Park (26 June 2017)

わたしの中におじいちゃんがまだ生きている。あの父母を待つ時の寂しい気持ち。一人で何かを抱えて言葉に出せない気持ち。おじいちゃんと過ごしていた時間。おじいちゃんは寂しかったんだ。わたしの中にずっと残っていた何かはそれだった。ハワイに来て、故郷から離れて、違う環境で生活していく中で、自分の過去に出会った。寂しさの原因はそこにあったのかもしれない。今のわたしがいるのは、今までの全てがあって今のわたしがいる。息子を怒っている時も、息子を優しく寝かしつけている時も、一緒におかしく遊んでいる時も。それは全て今までのわたしが経験してきた全てが、息子に反応している。

わたしの明るさは太陽のような母からもらった。

わたしの一生懸命になるエネルギーは父からもらった。

わたしの人と仲良くなれる気さくさは和を作るおばあちゃんからもらった。

わたしの細かさ、優しさ、そして人の寂しさを感じる心はおじいちゃんからもらった。

わたしの中にこれからもずーっと彼らは生き続ける。

そして息子にそれは繋がっていく。

そんな風に考えたら、この世の全てが愛で繋がっているとしか考えられない。

喜びも怒りも哀しみも楽しみも、全てがそれでよかったのだ。

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不動明王真言 金沢英夫

Aloha


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