生き方は自分で創れる
ぼくは、人の生き方に口を出すことが好きじゃない。言っても無駄というのもある。
自分のことは自分で考えられるはずだ。
生き方は自分で創って行くものだが、神が課題を与えたかのように言う人もいる。そう思えないこともないがそれはない。
また、テレビや小説には誰もが喜ぶひな型のようなものがある。それから外れると面白くないといわれる。そういった物語に生き方が影響されることもある。
こう生きるべきだと思わされる話は多い。そこには国民性も反映される。
アメリカ映画には一般人がある日事件に巻き込まれて、勇気を出して闘い傷つき、合衆国あるいは世界を救うということに興奮するようだ。
日本は困難に出会うと救世主が現れ、頑張っている人に助け舟を出してくれ、ホッと安心するのが好きだ。
しかし、現実はそうはならない。ハッピーエンドを期待してはならない。そこに悩むことすらあるからだ。
みんな自分のことをわかってくれないという話はその影響だろう。
また、寄り添うという言葉を好む人は何かの影響を受けている。自然発生しないからだ。
事実、人は自分にしか興味がなく自分さえ助かればそれでいいと思うものだ。(血縁者を含む)
また、自分と違う意見を持つ奴は敵だ。
自分の武勇伝や自慢話、悪口陰口は大好きだが、他人にとやかく言われることは許さない。
そういったことを物語にすると面白くないといわれる。現実的なのにだ。
ヒトは現実を突きつけられると、一番共感するはずなのに、非現実的な理想論の方に引き寄せられる。当たり前のことは面白くないのだ。
自分の生き方を創り上げたければ、先入観としてある物語を取り除かなくてはならないのではないだろうか。
それが面白い生き方になるかどうかはわからない。たぶん普通の生き方になるだろう。
それ以上の生き方を創るとなると至難の業だ。