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才能についての勘違い

「才能さえあれば…」「あいつは才能があるから」
巷では、才能という言葉がよく使われる。

辞書では、「もってうまれた能力」のことを指すらしい。
もって生まれたかどうかを誰が測るのかはわからないが、後出しジャンケンだ。

利己的な心の才能なら誰でも生まれつき持っている。こんな才能は誰も気づかないし当たり前過ぎて興味もないようだ。

「才能さえあれば」というが、どんな才能があれば、何をする気でいるのであろう。
まさか○○さんみたいになれるのに、といったことなら的外れな願望だ。

多くの人を観ていると、才能を発揮出来ないのは、才能がないのではなく「勇気」がないのではないかと思う。

失敗した時のことばかりを考え、才能のことを忘れている。

ノーベル賞受賞者のコンラート.ローレンツだったか「生物学者になった人は、5歳までに爬虫類に強い興味を持った人」というのを本で読んだように記憶している。

チビッコの多くは、爬虫類や昆虫が大好きなので、特別なことではないかもしれないが、その興味を持ち続けることは特別なことだ。

画家の千住博さんは、予備校生の時には、デッサン帳を100冊使ったと本で読んだように思うが、一年か二年でだとしたら、それは簡単なことではない。
ぼくは何年もデッサンをしているのに、20冊も消費していない。いや20冊は消費したかもしれない。

才能はほとんどの人にあるはずだ。
しかし、出来もしないような他人の才能に憧れて、自分の才能を見落としたり、才能は何かと探し回っているだけで、何もしない人ばかりだ。

実は、そんな人たちの才能は他人の才能に憧れるという才能があり、才能を探し回るという才能があるのだ。

ぼくの業界には、治療技術を追求するのではなく、たくさんのセミナーに参加する「セミナーマニア」みたいな人もいる。
「あっ、その治療法知ってます。セミナー受けたことあるんで」と言う。
治療家としてはほぼダメだが、セミナーで得た知識は豊富だ。その人の才能は「セミナーに参加する」それが才能だ。きっと本人は治療家としての才能を求めているのだろう。治療家としての才能を発揮するなら別の努力がいる。

実際、「○○みたいになりたい」という動機では、何かを身につける才能はないのかもしれない。

ぼくがこれまで観てきた何千の人たちには、それぞれ生まれ持った能力である才能はあったが、それを才能だとは気づいていなかった。

いくら「それって才能ですよ!」と言っても、「いやいや才能ないんで」と返される。

生まれ持った能力なので、当たり前過ぎて、それを才能だとは思えないのだろう。

誰にでも才能は当たり前に存在しているように思うが、その才能を傍に押しやり、他人の才能ばかりみて、自分は才能がないと思い込むことは非常にもったいない。

「才能はすでにあり、それも目の前にある」