見出し画像

忖度やエコ贔屓する人間はダメなのか

「忖度」という言葉の普及は、安倍元総理の貢献が大きい。これは、「人間の生きる意味は、何らかの影響を与えること」というぼくの主張の正しさを示している。


世の中は、忖度やエコ贔屓ということに対して不寛容な印象がある。


では、「忖度されることやエコ贔屓される」ことに関しても、そうなのかといえばそうではないようだ。
「ちょっとこれまけてよ」
「いつも贔屓にしてもらってありがとうございます。では、これだけ値引きさせてもらいます、他の人には内緒ですよ」
こんなのはどこにでもある話だ。


「いやいや、あなたは何を考えているの!忖度するつもり!エコ贔屓しないで!」
と憤る人はいない。もしそんな人がいれば面白いけれど、見ることはないだろう。


人間のいやらしさは、他人が得をすることが面白くないと思うことだ。やっかみ、嫉妬、妬みと表現される感情だ。これが忖度やエコ贔屓を批判する源にあるのだろう。それは、正義や道徳とは全く関係のない感情なのだ。


ぼくは、忖度やエコ贔屓をするその最たるものだ。はっきりと「エコ贔屓させてください」と自分から頼んでさえいる。「忖度してるので」と宣言すらしている。


それを言って「やめてくれ」と言われたことは一度もない。それどころか「これからもエコ贔屓して」と言われるくらいだ。「もちろんです!」とぼくも喜ぶ。


noteの記事では、マイナーな分野のことを書くので、当然、読んでくれる人は少ない。だからこそ、読んでくれる稀有な人がいたら「忖度」もすれば「エコ贔屓」もする。見返りなど考えてもいない。

何かを欲しがる人は沢山いるが、何かを与えたがる人はほとんどいない。

しかし、忖度やエコ贔屓は、珍しく期待や見返りが動機の源ではなく、むしろ、返礼としての「与える」を自らにおいて行う。


人間は自分にしか興味がないといっても過言ではない。だからこそ、もし、自分に興味をもってくれる、そんな稀有な人が一人でもいたら、大切だと思うのが当然で、また、そう思うべきである。


この世に忖度やエコ贔屓しない人などいないのに、「自分は忖度やエコ贔屓はしない」と、平気でありえない嘘をつく。

善人だと思われたいのならもっといい方法がある。少なくとも「忖度やエコ贔屓をしたいけど我慢する」と、こう言ってさえしてくれれば、皆は「いいね」や「スキ」を押してくれるはずだ。

ぼくは正直に「忖度やエコ贔屓する人間です」とここで記しておく。後で「あんなヤツやと思わんかったわ」と嫌な思いを誰にもさせたくないからだ。ぼくはそんなヤツなのだ。

「これどう?」や「我こそは」といえる意見や作品を記事にしている人、ぼくに忖度とエコ贔屓をさせてほしい❤️


今日の知恵は、
「嫉妬、やっかみが嘘をつく」
「忖度、エコ贔屓は普通」
「贔屓にしてくれる人を大切に!」
これは間違いない。