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Tarte au citron / タルト•オ•シトロン

 私の住む家の近くには、4件くらいのパン屋さんがある。パリ市民はそれぞれにひいきの店があってそこに買いに行くと聞くが、さて私はどちらのお店ををひいきにしましょう。
 
 先日、その内1軒のパン屋さんに行ってみた。メトロの駅からすぐ出た所にあって、比較的いつも行列ができている印象があった。まだフランス語での注文に慣れていない私は並んでいるうちに緊張が増してしまう為、必要に迫られない限り列に並ぶのは避けていた。フランスはお店によってシステムが違うことが多く、ややこしい。言葉が不利だからこそ感じる不便でしかないのだけれど。私には少しばがりの勇気が足りないのです。

 足を踏み入れてみようと思ったのは、その日は行列が少なくチャンスだと思ったからだ。初めて目の前で見るガラスケースの向こうには、何十種類ものバゲットやクロワッサン、ケーキやキッシュが並ぶ。さらにその奥では次々に注文を聞き取り、その注文されたパンやケーキを紙袋にせっせと詰めていく店員さん。キャッシャーも合わせると3人の店員さんが忙しそうに働いている。きっと彼女らからすると、今は全然忙しくない時間帯なんだろうな。

 ガラスケースの向こうにきれいなブロンドの髪を一つに結えた女性が、私の前に並ぶお客さんの注文を聞く。私はどきどきして、注文するものを頭の中で復唱する。スムーズに言えるか、発音もちゃんとできるか。

 いよいよ私の番が来た。ボンジュール、挨拶を交わし、いよいよ頭の中で唱えた呪文のお出まし。

「バゲットとパイ生地のパンオレザン、それとタルトオシトロンをください」
「バゲットと、パイ生地のパンオレザンと...あと一つは?」
「タルトオシトロン下さい」
「ごめん、わからないから、こっち来て!」

 後ろに続く列から抜け、彼女の言う通りお目当てのタルトオシトロンがあるガラスケースの目の前まで行く。今度は指を刺しながら
「このタルトオシトロンです」と伝えると、
「タルトオシトロンね、ごめん、わかってあげられなくて」
「こちらこそすいません、私の発音が悪いから」
私たちは笑いながら会話を交わし、彼女は素早く紙で包んだタルトをキャッシャーへ渡した。
 
 私も列に戻ると、後ろに並んでいたムッシューと目が合い微笑み、ウインクを頂いた。支払いを終えた私も、ウインクはしなかったが微笑み返してお店を後にした。小柄なムッシューは、グレーのハットが似合っていた。

 家に帰るとすぐに買った包みを取り出した。私の発音が聞き取れなかった彼女は、フルーツの絵がかわいらしい包紙でタルトを包んでくれていた。

 お湯を沸かして紅茶を入れよう。丁度レモンティーがあったはず。先日IKEAで買ったホーローのお皿にタルトを取り出す。もう少し洒落たお皿を買えばよかったな。

 タルトの先端にフォークを横に入れ、最初のひとくち。レモンのさっぱりとした酸味が、ぎゅっと詰まっていて、口いっぱいに広がる爽やかな甘酸っぱさ。そしてタルトの上に載った、白くふわっとしたメレンゲは、バーナーでつけた焦げ目が香ばしい。メレンゲ単体で口に含むと、ねっとりとした食感が優しく、嫌らしくない甘さを生み出している。

 この二つを一緒に食べるまで気付くことが出来なかったが、この甘酸っぱいレモンタルトと、甘いメレンゲを一緒に口に含めることで生まれる、とびきりのおいしさ。

 タルトオシトロンを生み出した人は天才である。なんでこんなに美味しいごちそうを、今まで食べてこなかったのか。これを機に私の中でイチ押しスイーツにのし上がった、タルト・オ・シトロン。
 
 きっとこれからもタルトオシトロンを買うときは思い出すだろう。発音には気をつけることと、てきぱきと働くブロンドの彼女、そしてグレーのハットが素敵なムッシューを。

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