なぜ私は「理」を考えるのか 集団編①

個人で定義をしてきた「理」

 「理」とは「正しさ」の最小単位であることは何度か述べてきたが、いずれもそれは個人でで捉えた事象だったり、個人での感情をピックアップしたりしてきた。その中で最初に浮かんできた感情には「理」が存在するので、それは「正しく」、捉えられる感情は「人生経験(という概念)」に基いて感じられる。

 さて、これは個人の中での話である。

「正しさ」がぶつかり合う集団

 集団とは、個の集まりと定義する。まずは集団をイメージしてほしい。なんでもいい。学校のクラスだろうが、大学の仲のいい友達達だろうが、会社での同僚だろうが、プロジェクトのチームだろうが、夫婦だろうが、家族だろうが。
 その中で「正しさ」についてぶつかりあったことはないだろうか。ある個人が自分が「正しい」ことを進めようとした際、別の個人が「正しくない」と考え衝突する。どんな年代でも、経験があることと思う。
 
 この時に起きている出来事を、私達が今まで議論をしてきた内容で解読するのは難しい。

集団の出来事の例

 Aという個人と、Bという個人を想定しよう。この二人の間で起きた出来事である。

「Aは机の上にケーキが置いてあるのを見つけた。Aは美味しそうと思ったので、それを食べてしまった。実はそのケーキはBのもので、Bはケーキがなくなったことについてとても憤慨している」

 この出来事の「正しさ」はどう判断されるか?

 おそらく100人に聞いたら100人が、勝手に食べたAを「正しくない」と述べ、Bを「正しい」と述べるだろう。
 

 なぜなのか。なぜAが正しくなくて、Bが正しいのか
 それをうまく理解するには、事象をどこまでと捉えるかで変わってくるだろう。

ケーキを勝手に食べたAと食べられたB、この事象はどこまでか

 集団で起きている事象の「正しさ」を考える際に、何を対象にしているかは非常に重要な問題である。個人編では個人で捉えた事象が全てだったが、集団編ではその応用が必要になる。

 つまり私達がこれから考えなければならない事象は、

「Aは机の上にケーキが置いてあるのを見つけた。Aは美味しそうと思ったので、それを食べてしまった。実はそのケーキはBのもので、Bはケーキがなくなったことについてとても憤慨している」

ではない。もちろんこの出来事は起きているのだが、「正しさ」をより良く理解するために、「理」を取り出すためにはもう一歩踏み込む必要がある。

 私達が考えなければならない事象は以下である。

「Aは机の上にケーキが置いてあるのを見つけた。Aは美味しそうと思ったので、それを食べてしまった。実はそのケーキはBのもので、Bはケーキがなくなったことについてとても憤慨している」
 このことについて「一般的に」考えると、Aが正しくなくてBが正しいと判断される。

 ここまでが事象となる。
 
 集団で起きた出来事が「一般的に」処理され正しさが決定されるまでを事象と捉え、集団での「理」を取り出しに行こう。


今回はここまで。適宜理論の穴などがあれば指摘いただければ幸いである。

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