なぜ私は「げんしけん」が好きなのか

 誰しも心に残るマンガというものがあるだろう。私にとってのそれは、木尾士目先生の「げんしけん」なのである。

 「げんしけん」とは大学のサークル現代視覚文化研究会、通称げんしけんに所属するオタクとオタクじゃない人達のリアルな日常を描くコメディ作品である。主人公の笹原を中心に初代は9巻で完結し、二代目として復活し12巻が刊行。一味違った青春を描いた物語として、今なお語り継がれる作品だ。

 私がこの作品に出会ったのは2005年頃、ちょうど最終巻がでるかでないかの頃だったと思う。友達に借りてイッキ読みし、最終巻の発売を心待ちにした。だから私は初代が特に好きである。なので初代の話をしたい。

 初代げんしけんの話をする際に、必ず二つの派閥が生まれる。主人公の「笹原」に感情移入する派と、「斑目」に感情移入する派である。私は単純に「笹原」に自分自身を投影してしまう。

 彼はオタクだが、高校生の頃はそれを表に出せずに悶々としていた。大学生になり、オタクサークルに入ろうとするがなかなか一歩が踏み出せない。なんとか滑り込めたのは「げんしけん」という謎のサークル。そこで彼は、少しずつだが自分を表現する術を周りとともに成長しながら得ていく。最終的にそれは「恋愛」と「就職」という形で結実する。

 笹原が初めて友人の高坂宅に行ったときのエピソードが忘れられない。仲良く二人でゲームをしていたところ、高坂が他の人も呼ぼうといって、先輩たちを呼ぶ。先輩たちと上手く会話ができる高坂と笹原。彼は上手く喋りだすことが出来ず、居心地が悪くなってしまう。

 このリアルさといったら……。

 結果的にハプニングで高坂宅から追い出されることになるのだが、その後先輩宅にエロゲーをやりに行きたいと言い出すことで彼の中で何かが変わったのだろう。その後は少しずつだが自分を出すことができるようなる。

 2000年代初頭のオタクにとって、オタク趣味は自分の内面全てだった。自分の感情や思いを表出するには、オタク趣味を出すしかなかった。だが世間では、オタク≒キモいという風潮があり、内面を出すのは社会的死を意味していたのだ。それでも、自分の内面を引き出すことができた笹原を、私は称賛したい。

 今やオタク≒キモいはどこへやら、オタク趣味を全面に出すのは悪いことではない風潮に変わっている。自分の好きなものを好きだと言える世界。歌やダンスで自分を伝えようと思える世界がきていることは非常に喜ばしいことだ。

 中高生のみんな。好きなものを好きだと言って構わない。それが必ず自分の力になるだろう。そしてぜひ「げんしけん」を読んでほしい。古き良きオタクのかほりと、自分を表現する大切さを教えてくれるだろう。

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