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小麦を刈る

関東の梅雨入り前に麦刈りをした。天気予報を何度も見て予想を立て、晴天日に狙いを定めて日にちを決める。最後は勘だ。この日の作業は、刈って麦束にして穂を上にして立てて、雨よけシートをかけること。

太陽の光を浴びて、土に触れて、水をガブガブ飲んで、作業を共にしてくれる相手がいて、食料になる植物を収穫するという作業は、体はヘトヘトに疲れ果てても頭はスッキリして、登頂後のような心地よい気持ちが芽生えた。

今回の麦刈りを体験して感じたことといえば、頭の中の嫌なことやモヤついてた事項について考えを巡らせる体の余剰エネルギーが残らないくらい、体力的にハードすぎた。そんな余裕は消えた。頭の中のノイズが淘汰されてキレイになると、必要なものしか残らないような機能があるのかもしれない。

私の見通しが甘いせいで想像以上に量が多く、麦を作ると言い出してしまい、助っ人として参加してくれた皆さんを巻き込んでしまったことを後悔したりもした。やっぱり麦は大変だ。そこそこの量があると中腰での姿勢が続くので辛い。刈るよりも麦束作りが案外手間がかかり、昼ごはんの後、紐でくくってもくくってもなかなか終わらず一番キツかった(追記: その後助っ人の皆さんからはキツかったけど楽しかった、と感想をいただきました、ひと安心)。

麦の先輩、小平のおばあちゃんたちの生の声が聞き書きとして残っている。

大麦・小麦と作っていたから、そりゃあ大変。大麦の方を早く刈りとるの。これは自分の家で食べる分だけね。戦時中は供出が厳しくて、家で食べる分がなくても他の家から買って出しました。

「小川四番の女たち Ⅱ ─季節と祀りと暮らし─」小平・ききがきの会

昔の小平・小川村には近隣の生活を助け合う相互扶助のグループ自治制度があり、それを「組」と呼んだ。青梅街道を挟んで南北の家々を東西で割り、一番組から八番組まで存在する。その内の一つが我が四番組。そのルーツは江戸時代の五人組から続いており、現在は昔ほどの強い結束はないが、地元の人々には組の所在は知られている。その四番組のおばあちゃんたちの昔話を、「小平・ききがきの会」のメンバーが聞き書きしまとめたものが「小川四番の女たち」である。とても貴重な民俗資料だ。

引用した「小川四番の女たち Ⅱ」は続編にあたり2002年発行。私が20年以上前に図書館で最初に手に取ったのは正編「小川四番の女たち」だった。当時の印象としては「とにかく辛い、大変、苦労、貧困」しか目に入らず、20代の遊び盛りの女の子としてはあまりの衝撃にそっと本を閉じるしかなかった。

その頃、祖母が亡くなった。祖母は四番組の慶徳屋(現在は焼肉バイキングレストラン)というよろず屋に生まれ、天に帰るまで住まいはずっと四番組だった。私の記憶ではモンペにほっかむりに長靴姿で畑で働く小さなおばあちゃんだった。

1960年代ごろ、祖母と犬のラッキー(たぶん)

生前私によくこぼしていたのは「畑やったり養鶏やったり、いろいろできて楽しかったよ」、「この辺の人はいい人たちばっかりでよかったよ」といった明るい印象の発言だった。祖母が遺言みたいにボソボソと聞き取りづらい小さな声で私に残したメッセージの通り、祖父母の暮らしは畑が中心で質素だけれど確かに楽しそうだった。近隣の人や農協や多種多様な人がビニールハウスを訪れては野菜を買ったり肥料を売ったりお茶飲んだり(お茶菓子はルマンドが多かった)、私の幼少期に出会った成人の中では静かながらもワイワイと一番楽しそうに生活していたように、小さな私の眼には写った。

祖母の言葉と裏腹に「小川四番の女たち」に頻出した「とにかく大変」は、記憶の下層の方にあるのに時折出てきては、忘れてはならぬと言わんばかりにチクリと胸を刺した。

民俗資料を読み込むと、「麦は重労働」「とにかく大変」「苦労をさせてもらった」と表現され、知識としては理解できるが、どんな風に大変なことなのかリアルな感じが伝わらなかった。体験した今は、それがどういうことなのか体で分かる。それは「修行」が一番近いイメージだ。

全て昔の手作業でやるとしたらの話、麦穂から小麦を食べられる状態の粉にするまでの過程が根気のいる単調な作業で、体力勝負。もし仮に大量に作るとすると、腰が悲鳴をあげたくなるような、まさに苦行となるだろう。そして労働と対価が合わない。キツい割にできる小麦粉の量はそれほど多くはないだろうと現段階では予想。

でも麦刈り作業を通じて昔の小平の人々と時空を超えて何かを共有できたようにも感じた。きっと古人の麦を刈る姿は飄々としていたのだろうが、私たちには昔の人のような体の使い方はわからない。でも同じ作業を体験することで、今まで私が見落としていたことに気がついた。

「昔の人の苦労」と記される場合が多いけれど、そこからこぼれ落ちて表現されなかったリアルな農民の情緒としては、決して辛いことばかりではなく、時には作業に集中して無の境地になったり、自分なりに刈り方にリズムをつけ、作業唄を口遊み、冗談を言い、麦刈り後の清々しい気分を仲間たちと分かち合い、次の豊作を祈り、充実感や達成感といった、彩り豊かな精神の働きも活発にあったのではないだろうかと想像できる。

昔は千歯こきで実をとった。それから足ぶみ脱穀機になってね。足ぶみは音がトーチャン、カーチャンって聞こえてね。

「小川四番の女たち Ⅱ ─季節と祀りと暮らし─」小平・ききがきの会

小平には仕事うたとして「棒打ち唄」が残っている。

〈棒打ち唄〉①
棒打ちのお菓子にゃ何がよい
 茶でよし さつまでよし
 あんころ餅なら なおよし
あの山かげから雲が出た
 ハアーこけこけ
あの雲かかれば雨か嵐か
 ハアーほいほい 
青梅の宿は長い宿でね
 ハアーほいほい
長いとて物干し竿にはなるまい
 ハアーのめこい のめこい

「小川四番の女たち Ⅱ ─季節と祀りと暮らし─」小平・ききがきの会
(KKV集録ビデオより)

素朴でシンプルな歌詞に飾り気のない小平の土地柄が出ている。他にも草津節や八木節の旋律に乗せて歌詞を変え、茶摘み唄や機織り唄としたり、当時の流行歌であった東京音頭などを唄っていたとある。ちなみに棒打ち唄は脱穀作業の時に歌っていたそうなので、実際に作業とともに歌うならば次の工程になる。

もちろんこれが年貢を納めるための労働義務だったら結果はまるで違うものになるのだろう。悪天候の中での作業や不作だった時の収穫も辛い気持ちになるだろう。文字通りの「苦労」だ。もちろん現在も世の中には生きるためのキツい肉体労働は(頭脳労働もだが)掃いて捨てるほど存在する。それは今も昔も変わらない。

実際にやることで小さな発見がたくさん起こる。麦のトゲが手袋をはめていても腕に刺さってずっとチクチクすること。麦束を持つと意外とボリュームはあるのに重くはないこと。刈った小麦は1時間も経つと緑色から淡いベージュにみるみるうちに変わること。人間一人一人の力がとても重要なこと。太陽の光りを浴びながらの作業は数時間を超えるとすごい勢いで体力を奪っていくこと。種の撒きすぎは麦が密集して生え、根元に日光が当たらずに倒れる原因になり、生育も良くないこと。

農民が汗を流しながらワーキングソングを歌う。テレビのドキュメンタリー番組で見たことがあるようなありふれた牧歌的なイメージかもしれない。もちろんそれも悪くはない。ただ、ちょっとそこで想像してみてほしい。その唄が生まれる以前には、よりずっと素朴な情緒がきっとあったはずだ。私はこれを味わってみたかったのだ。

〈鎌洗い〉
麦刈りがすむと、各農家では「おかげさまで無事に終わりました。ごくろうさま」ということで、鎌をきれいに洗い研いで、お神酒と赤飯を箕の中に入れて神棚の前に供えた。家によっては鎌にお神酒をかけたとも聞いている。道具を大切にした習慣と麦刈り脱穀という大仕事を終わった安堵感が伝わってくる。

「小川四番の女たち Ⅱ ─季節と祀りと暮らし─」小平・ききがきの会

小平に限らず昔の人の写真というのは、みんなそれぞれ顔立ちの良し悪しの問題ではなく、生き生きとしたイイ顔をしている。あれは一体なぜなんだろうと疑問に思ってきたけれど、昔の労働には天地への祈りや、精神的な工夫や遊びの部分もセットで共存していたからなのかもしれない。

私の曽祖父 in 小平

かつては穂を上にして立てた麦束を雨よけのムシロで覆った。今回はムシロではなくカラーシートであることと、シートが風で飛んで線路に引っかかって電車が停止する恐れがあること。正直やるまで気がつかなかった。不安に襲われる。どうしよう。私ができる対策としては、できるだけこまめに様子を見に行ってシートの状態を確認するしかない。やれる対策はやる。どれだけ不安になっても、やれることをやるしかない。あとは脱穀が終わるまで、突風が吹きませんように、祈るしかない。天気予報をチェックする日々は続く。

曾ってわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた 
そこには芸術も宗教もあった
Büchner 明治維新以前 家屋 衣服 食物 労働 宗教 音楽 舞踊 
芝居 遊楽 創造
経済の変動に伴ふ所有衝動の発達
科学による急激な技術の進歩による機械的の設計 
田植踊 節句 祈願 植物医師の例
労働は古に遡るに従って漸く非労働となる 
如何にして労働が発展し来れるや 解し難きものあり
蓋し原始人の労働はその形式及内容に於て全然遊戯と異らず アフリカ土人
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである

宮沢賢治 「農民芸術の興隆」

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