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人の目より未来の自分の目

昨夜の振り返りタイムで、1日の自分の行動や思いをシェアする時間があったんだけど、朝の自分のことがまったく思い出せなかった。びっくりした。
何をしたか、何を食べたか、何を話したか。何も。(言っておくけど、酔ってたとかじゃないよ。)

別のことを話している間にようやく少しずつ頭に浮かび上がってきて。
で、「なんでなんだろう?」と考えたんだけど、多分、他の時間が濃いから、どんどんと上に被さってきているんだと思う(おれの記憶力の低下、という問題もあるけどね)。

昨夜のぱちはらダイアログでのあすなさんとのジェンダーギャップの話。今日の夕方しおりさんと話したカタリバやペタゴーなどの教育に関する取り組みの話。夕飯食べながら話した自分語り…。

1つ1つ、自分がとてもその場に力を注いで会話しているんだってことに気が付いた。ときに、話していなくて、その場から少し離れて聞いているだけでも、そこで行われている会話に、意識のほとんどを割きながら過ごしている。

その空間にいる人たちが「そこにいる意味を感じる」時間を作りたいのだ。その場の価値を高めたいんだもの。
そこにその人が存在する時間を、意義深いものにしたい。そのためにおれは、その人が自分だけでは思いつかなかったところへ、向きそうもなかった考えへ、その人が自分だけでは気づくことのない感情や意識へ、その人を連れて行きたい。

だってそれこそが、おれが自分の価値を相手に提供できる唯一の方法だから。そしておれ自身が、自分自身の価値や存在意義を感じられる方法だから。

だから、おれには1人の時間もすごく重要。
その時間をもっといいものにできるように、もっといろいろな見方だったり見立てだったりを自分の中に備えていたいし、エネルギーを自分の中に持っていて、エナジャイズできるようにしておきたいのだ。

そんなことをぼそぼそと話したら、「ぼそぼそ話す声も悪くないですよ」って言ってもらった。なんだか、とっても嬉しくなっちゃった。



もう時間なんだけど、数日前に書きかけた<未来の自分の目を気にした方がいい>って話を書きたい。さっきちょっと、その話をする機会も今日あったので。

人は誰しも、程度の差こそあれ後悔を持って生きていくんだと思う。
って言っても、別に常にそんな重たいものを背負っているわけじゃないよ。普段はすっかりその重さを失っていたり、無色透明になっていたりする。要するに常に頭ん中を占めているわけじゃない。

でも、なんかのときに、ズシンとのしかかってくる。そしてのしかかってくる後悔は、誰かに負けた経験とか、何かしょうもない凡ミスをしたこととか、そんなことじゃない。

自分をじわじわと責め続けるのは、目の前の楽な道だったりふざけた選択を選んだ経験だ。
だから、目の前に対処しなきゃいけない問題があって、解決方法やアプローチがいろいろある場合には、未来の自分が誇れるものを選んだ方がいい。未来の自分が「グッジョブ!!」って自分に微笑んでくれるようなチョイスをするのがいいとおれは思う。

まあ実際、どれを選んだってうまくいくかいかないかだったりどれくらい楽か大変かなんて、思惑通りにゃいかない。やってみなきゃ分からない。
だったら周りの誰かを気にするんじゃなくて、未来の自分を気にしよう。

長期的にみたら、それが一番自分をしあわせにするって、少なくともおれは確信してる。間違いなく一生で一番長く付き合うのは自分自身だから、自分に心底呆れかえり、嫌いになることは避けないとね。

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