舞台恐怖症/Stage Fright

「そこは自由に、お任せで」という時ほど不自由になってしまう男、岡田です。
ふ純喫茶『ミヤコより遠く離れて、みる』出演者ブログリレーも三巡目に入りました。

毎回お題を頂いて『自由に』書いていますが、僕は他の座組メンバーの自由な文章を楽しませてもらっています。

ふ純喫茶 note [出演者ブログ]


ブログメンバーからは外れていた益田さんに至っては、ついにラジオまで……。

はい。
ブログもラジオも公演のサブテキスト・副読本のごとく、みなさんに少しでも楽しんでもらおうという企画です。

今週のブログは作品や稽古場のこと。

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このブログやふ純喫茶『ミヤコより遠く離れて、みる』出演者のTwitterなんかを御覧いただいているみなさんは既にご理解されていることかと思いますが、この作品は高校生たちが修学旅行で訪れた京都が舞台です。
民宿に泊まった高校生たちの、消灯時間後のあれやこれやがぐだぐだと繰り広げられる、そんな話です。

今回の座組メンバーは主に大阪・京都府民で構成されているので、実際に修学旅行で京都に行ったことがあったのは唯一県民の僕だけでした。
あ、他にも県民はおるわ。
もしもっと県民がいたらごめんなさい。
年寄りの健忘症はやはり重症だと、哀しい眼を向けてください。

日々そんな哀しい目を向けられるために稽古に行く訳ですが、毎回が片道約3時間の小旅行です。
往復、約5~6時間使ってます。
小学生の頃の自分には確かに修学旅行でしたが、今のジジイな自分にも十分旅行です。
稽古が終わるとみんな東へ西へと帰っていきますが、僕だけは南へ下ります。

遠い。

大人も子供も時間の順行性や流れる実時間は同じですが体感時間は全く違います。
17歳の17年は一生ですが、大人の17年は17年に過ぎません。
経験したことを再度『新しく』経験することも、普通の人生では起こりません。
『TENET』や『メッセージ』、『プリデスティネーション』ではないのです。
あ、『プリデスティネーション』は視点が違うな。

まあそうやって修学旅行で京都へ来た経験があるとはいえ、既に忘却の彼方。
今の自分には劇場にふらふら赴くか、『ガメラ3 邪神覚醒』が京都の印象なので、初めての旅行的な体感は作品に表出していると思います。
してるのか?

『ガメラ3』の京都決戦ついてはこちらの豆魚雷さんの記事を。

僕はソフビと食玩しか持ってませんが。


甥は京都の大学生(但し滋賀住み)なのですが、一度も遊びには行ってません。

急に伯父が下宿に来るってなんや。
漫画か。
事件に巻き込まれる系の映画の匂いしかせんわ。

とまぁ、高校生の日常は程度はともあれ、今も昔もある側面では事件だらけな部分が垣間見えたりします。
大きな出来事も小さな出来事もそれは事件だし、犯罪でなくとも本人にとっては事件は事件です。

例えば、修学旅行でお約束の恋バナ的なやつ。
「お前の好きなやつ誰だよ〜」
「〇〇のことを好きなんだぜ~こいつ~」
「お前、ばらすなよ!」
なんてこともひとつの事件です。
「絶対に秘密」は絶対に守られません。
バラした本人たちには他意はないのでしょうが、バラされた方は堪りません。
シェアするのは噂話より食べ物にしてください。
あ、他人の噂はおいしいのか。

大人になって思い返すと気付く、あれは悪い事したなぁなんて事は結構な傷つけ合いというか、トラウマを刻み合うようなもんです。
更に振り返りには思い出フィルターが掛かって、良くも悪くも自分にとって都合のいい話に脳内補完されていく。
事実以上に良い話、最悪な話に。

カースト上位の奴はそんなことに一切気づいていません。
やられたほうは永遠に覚えています。
やった方は忘れます。
やられた方は人生を賭けるが如く抵抗したりしますが、結果主格転倒が起こっていたり。
そうやって、悪意のない悪意が真の悪意になっていたり、悪意すら美化されていたりします。
そんな綺麗なもんじゃねぇでしょう。

まぁ僕はすでに高校生では無いですし、記憶と想像で記号的にしか高校生を認識できないのかもしれません。
フィルター越しです。

街で見掛ける高校生を眺めながら自分の高校時代を思い出し、自分は果たしてそのカーストのどこにいたのか、当時何を思って日々を生きていたのか、それは自分の役を考える大きなヒントになります。
どんな役でも同じなんですが、体験は時に邪魔です。

僕の役どころは、ただの悪ふざけにしか見えないかもしれません。
実際ふざけてます。
全力で。

演出からは、「トップをねらえ!」や「スクール・ウォーズ」なんかがサブテキスト的に挙げられていますが、それを全力で再現するだけだと何者か分からなくなってしまいます。
信頼してやってるので、そこをただの再現でなく『僕の』全力でやらないとそういう存在にならないと思っています。
今回なら、サブカル的な文脈を借りて徹底的にふざけることで表出するもの、その存在の対比や落差。
それが僕に与えられた役割と言うわけです。

あー理屈っぽい。
違ったら最悪だ。

コミュニケーション不足だったり、コミュニケーション能力の低さだったりが俎上に上がることが多い現代ですが、この座組での作品文脈を理解するのは、そういう縁(よすが)的なものが鍵になるんじゃないかなと考えています。
出演者の一人としての見方にすぎないですが。
もちろん送り手側としての座組の中で、全員がそれを理解する必要がないこともあります。
別の共有・共通認識で通じる、座組の中の客観というか、お客さん目線のようなもの。
道順が違っても目的地は同じ筈です。


『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』で荒巻課長が言うアレですね。

「我々の間にはチームプレーなどという都合のよい言い訳は存在せん。
あるとすればスタンドプレーから生じるチームワークだけだ」

これは美化しすぎ。


送り手も受け手も文脈が全てわかってる中で見ていただくのは、ちょっとつまんないんじゃないかなとも思います。
わからないけどなんだこりゃ、というような、妙なおかしみというか、「いるわー、こんなやつ」な部分を見つけてもらえると嬉しいですね。

普段の稽古では、僕は最年長故のジェネレーションギャップの凄さに震えています。
これが、「我が子と何を話していいのかわからない」と言うアレか!
と更に震えて、それを埋め合わせる事はどこまで必要なのかなぁと稽古場ではよく考えます。
基本が人見知りなので、自分としてそのままでいるようにしています。

幸いにも僕の内面が随分と子供なので、少しは話が通じているような気がしますが、もしかしたらみなさんが話を合わせてくれているのかもしれません。
これはまるで世間に蔓延る自分中心でしか話さないろくでなし上司じゃないか。
だとしたら辛いなぁ。
幸いじゃないよ。


作中のセリフの中にもさらっと出てきますが、人の事などほんとのところは分かりません。
自分と相手と空気と対峙するしかないのですね。
役であろうとなかろうと、存在としての対峙。

『ミヤコから遠く離れて、みる』に登場するのは、まだまだ自分の主体を獲得しきれていない人ばかりです。
つまり、他者の存在を通した自分ばかりを見ようとしている人が多い。
そんな気がしています。
ふわっと村上龍/庵野秀明の『ラブ&ポップ』や『新世紀エヴァンゲリオン』のテレビ版と旧劇場版、『マトリックス』なんかも思い出されます。
『コードギアス』なんかもそうかな。

本来の選択肢は自分の手の中にあって、他人に強制されるものでも流されるものでも、まして誰かに合わせるばかりでもない。

そんな日常の中での非日常、人生の過渡期に差し掛かった、高校生たちの三日間。
『ミヤコより遠く離れて、みる』は彼らの何気ないハレとケのお話かもしれません。














嘘です。
ただただ同世代の連中がだらだらとしているお話です。
肩肘張らずに気楽にご覧ください。


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(了)

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