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遅めの花見

 春。桜の季節である。今年は暖冬の影響もあってか全国的に桜の開花が早く、4月初旬に花見を予定した僕たちはほとんど葉桜になってしまった桜の木の下に集まった。花が散ってしまった以上、ブルーシートに映える薄桃色の花びらも、焼酎の水割りに香付けをしてくれる花びらも降ってはこない。それでも僕らは花見をした。言ってしまえば花見というのは単に久しぶりに仲間内で集まるための名目にすぎないものであって誰も桜を目当てに来たのではなかったのかもしれない。正直なところ僕自身、花見という趣ある行事を楽しみにしていたというよりも春休みの間なかなか顔を合わせることのできなかった友人たちと顔を合わせることができてそれで満足している節がある。
 男4人で集まると最初のうちこそ近況報告をしあったり猥談に花を咲かせたりと会話に熱中しているのだが時間の経過と共にどうしても少し離れたところでこれも花見という名目のもと集まったであろう女子大生のグループに目が行ってしまう。それにしても目に刺さるような青々とした桜の葉と容姿の優れた女子大生というのはどうしてこうも絵になるのだろうか。缶酎ハイを片手に楽しそうに過ごしている彼女らを見ていると桜の花が散ってしまっていることなど忘れてしまうほどに華々しい。男友達とばかりつるんでいる僕にとってこの光景はとても目の保養になる。もちろん僕とて女の子と談笑することもあれば学外でも行動を共にすることもある。しかし、それとこれとは話が別なのだ。僕自身も女の子達もどこか相手に対して壁を築いており、双方間の壁は決して無くなることはなく、言ってしまえば「表面上」の関係なのだ。
 それは決して僕が女嫌いであったり同性愛といった嗜好を持ち合わせているからではない。むしろ僕としては女の子は好きである。ただ、メスが苦手なのだ。中学生のころからだろうか、僕は男尊女卑寄りの思考をするきらいがあった。女よりも男の方が仕事ができる、男の方が勉強ができるなどといった考えを僕は自分でも気づかぬうちに表に出してしまうのである。おそらくこれが女の子から壁を築かれる一因となっていること決定的であろう。       
 一方で僕から女に対する壁を築く要因となっているのは先ほども述べたが「メス」の部分である。女という生き物は本能的になのか知らないが異性を男ではなく「オス」として捉えた際にメスの部分が出てくるのだ。目つきはどこか妖艶さを帯び、声色は少し高くなる。先ほどまで自分と普通に話していた女の子が別の「オス」を認知した際に唐突にこのような変貌を遂げる様、また、さして興味があるわけでもない男に対しても気のあるような素振りを見せる際におこるこの変貌こそが僕が苦手とする「メス」の部分である。さしもの僕とてそのような態度の変わり方を見せられれば苦手意識くらい持たざるを得ない。僕と女の子達の間の壁が取り払われるのにはあと20年ほどかかるのではないだろうか。
 そのような1人語りを心の中で繰り広げていると3人が卒業後について話しているのが耳に入った。どうやら僕も含め皆それなりに地方寄りの勤務地になるらしい。今でこそ校内、校外に関わらず頻繁に顔を合わせている僕らだが卒業後はどうもそうはいかないらしい。どこで目にしたか思い出すことはできないが「今一緒に居る僕たちは一方通行の電車の中で偶然同じ区間で同じ車両に乗り合わせただけ、ばらばらになればもう共に歩むこともないだろう」この言葉が僕の頭を過った。人間は過去の関係を忘れ今ある生活を大事にするものだと僕自身も思うが、この長いクソみたいな人生の中でほんの一区間でもこれだけ居心地のいい環境を与えてくれた彼等には感謝するべきなのかもしれない。
 大学4年生である僕たちがこうして気軽に集まることができるのも今年で最後になるだろう。僕たちも桜の花びらのように散り散りに自分の選んだ駅で降り、乗り換えて進んでいくのだろう。そんなことを考えながら友人たちを眺めている僕の頭に鳥の糞が落ちてくることを僕はまだ知らなかった。

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