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鬼女伝説

こんな話を聞いたことがあるだろうか。平安時代、長野県にある戸隠山では紅葉の季節になると何処からともなく現れる女がいた。彼女の素性を知る者はおらず、或る者は彼女は山賊であると言い、また或る者は希代の医者であると言った。女に関する噂は無数に囁かれ、其のどれもが真偽の程を確かめる事ができないものだった。
或る時、一人の侍がその女の正体を知るために山に潜ったという。数日後、ぼろ雑巾のようになって帰ってきた侍が言うには女は「鬼」であった。侍は女を見つけると密かにその後をつけた。山道ということもあり、見失わないようにいることは非常に困難であったものの、侍はどうにか女の塒を突き止めた。女は塒にしているであろう小屋に入ってから出てくる気配がない。侍は女が出てくるのを待つ間に眠ってしまった。
一刻ほど経ったであろうか、目を覚ました侍は自分が先ほどまでいた茂みとは異なる、どこか屋内にいることに気が付いた。程なくして家主とおぼしき足音が聞こえ、例の女が姿を見せた。
「よほどお疲れだったのでしょう。山の中で寝ていては疲れも取れないと思い、不躾ながら家へ運ばせていただきました。お腹がすいていらしたらどうぞ、こちらをお召し上がりください」
そう言うと女は豪勢とは言い難いが決して質素ではない肉を主とした料理を運んできた。
「丁度いいお肉が手に入ったところだったんですよ」
女は言う。料理はどれも美味であり侍は瞬く間に平らげた。女は唯の人であり、少なくとも悪人の類ではないだろうと判断した侍は夜分に長居するのも悪いと、小屋を出た。そこで侍は気づいた。小屋の前に自分が乗ってきた馬に着けていた鞍が転がっていることに。途端に寒気が走った男は一目散に山を駆け下りた。後ろを振り向くとおおよそ人には見えない形相をした女が追ってくるではないか。男は恐怖でこわばる身体を必死に動かしながら一直線に山の麓へ向かう。逃げて逃げて麓に辿り着いたときには既に朝日が昇り始めていた。後ろを振り返ると女はもうそこにはいなかった。
 男の話を聞いた人は口をそろえて「狐や狸に化かされたのだろう」と言うが、男はあの晩のことが夢幻の類には到底思えなかった。男がひたすらに話し続けて一部で語り継がれたものが今現在で言うところの「鬼女伝説」であるとかないとか。

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