大学院留学を志したきっかけ – 高すぎた学位留学挑戦までの壁

※本記事は2021年6月26日に執筆した記事です。

 筆者は、2021年の秋からアメリカのマサチューセッツ工科大学で地球の研究を始める予定の日本生まれ日本育ちの大学院生です。このブログでは、学位留学中の活動について記録したいと思っています。
 大学院受験前にも受験後にも、変わらず私の中にあるのは「研究を続けたい」という思いです。「研究」の中には、単に仮説を立てて検証して論文にするという一連のプロセスだけでなく、毎日同じ学科の教員やメンバーといろんな話をすること、学会会場で自分の研究をネタに幅広い世代の学者と議論すること、大学の授業やイベントにTAやスタッフとして参加し、同じ地球科学を志す仲間と交流すること、次世代の科学者を育成すること、アウトリーチ活動を通じて一般の人に自分の研究の魅力を伝えること、科学の面白さ・楽しさを世界中の人と共有し、新しい科学・技術を使ってより良い世界を作り出していくこと、その全てのプロセスが含まれています。それは全部私が好きなことですし、一生かけてやり遂げたいと思っています。そして、その全てが実現できる場所の一つが大学機関だと思っているので、将来はどこかの国の大学教員になれたらいいなと思っています。
 逆に言えば、これ以外のことに関して特別に大きなこだわりはありません。これらの活動が日常的にできなくなってしまうことが正直一番辛いです。大学時代からお世話になっている東工大には、上記全てができる研究環境が整っていました。だからこそ、最初のうちは学位留学を志望することそのものに対するハードルがとても高い状態でした。

大学院受験を志したきっかけ – 高すぎた学位留学挑戦までの壁
 中学・高校時代から大学教員になりたいという漠然とした憧れを抱いていました。大学教員になるためには博士号を取得する必要があったので、大学院に進学することを前提として東工大に入学しました。入学後には、米国大学院学生会が主催する学位留学の説明会に何度か参加していましたが、そこで発表する学生は輝かしい成績や業績を持っていてとても眩しく、学位留学という選択肢に漠然とした憧れは抱くものの自分が挑戦するには高すぎるハードルに感じました。
 そこで、学部時代は数週間の短期留学を通じて学位留学へのハードルを下げていくことにしました。実際、何度も海外に行くことで次第に自信がついていきましたが、それでもなお、5年間の博士課程を海外の研究機関で乗り越えることに対するハードルは高いままでした。結局、学部卒業時には東工大の修士課程に進学することに決めました。当時は海外の大学院への進学をまともに検討したわけではないのですが、東工大に進学すると決めた理由はいくつかあります。一つは、私の所属する学科ではほとんどの学生がそのまま修士課程に進学し、特に博士号を目指す人は修士課程の間に卒論でまとめた研究を論文として国際雑誌に投稿する風潮があったからです。結局は周りに流されてしまったのかもしれませんが、私は学部2年次から当時所属していた研究室で研究を始めたこともあり、当時取り組んでいた研究テーマにはとても強い思い入れがありました。「publish or perish」という言葉があるように、研究は論文として出版しなければ誰の目にも留まらずに消滅してしまうため、数年かけて取り組んだ研究を論文にまとめず新しい環境に移動してしまうのは、自分にとっては少しもったいないように感じていました。従って、投稿論文を出版するまでは同じ研究室で研究を続けようと思いました。また、もう一つの理由としては、日本の大学院入試を受験したいと思ったからです。当時の東工大の地惑コースではB日程という筆記型の試験しか選択できない仕組みになっており、進学するためには学部時代に勉強した物理数学、力学、電磁気学、量子力学、統計力学などあらゆる理系基礎科目についてきちんと復習した上で基準点を満たす必要がありました。さらに、定員が少ないために内部生(東工大の学部を卒業してそのまま同じ大学の大学院に入学する学生)でも基準点を満たさなかった場合は容赦無く不合格になります。学部時代、自分なりに頑張っていたとはいえ成績はあまり良くない方だったので、東工大の院試を機に理系大学院生としての基礎固めを行いたいと思いました。また、自分は小学校から大学まで実質的に内部進学という形で進学していたため、筆記試験や一般入試という受験の経験が全くありませんでした。学部卒業から直接アメリカの大学院を受験するとなると、このような筆記試験に一度も挑戦することなく知識をきちんと定着させないまま学生時代が終わってしまうという危機感もあり、東工大の院試に挑戦しました(と、もっともらしい理由を述べてみましたが、2つ目の理由に関しては東工大と米国大学院を併願するという選択肢もあったかもしれません。しかし、先に述べたように学位留学に対するハードルがとても高く、両立できそうにないという理由で無意識に諦めていたのかもしれません)。
 修士課程に進学してからは、7ヶ月という当時の自分にとってはかなり長期に思える研究留学をしました。渡航先はUC Berkeleyで、受け入れ先の研究室については東工大の指導教官に紹介していただきました。この留学の一番の個人的な目的は、「自分が米国の大学院でサバイバルできるか」を肌で感じて確かめることでした。ところが実際は、研究留学生として所属する場合は授業も課題もなく、自分の時間を自由に使えるので正規留学をしている大学院生と比べるとかなりゆとりのあるスケジュールでした。結局、自由に研究活動に取り組めたので、留学自体はとても楽しかったですし、西海岸の気候もあって途中で精神的に大きく落ち込んでしまうこともありませんでした。この時は、授業についていけるのかはわからないけど、少なくとも研究活動だけならなんとか乗り越えられそうだなと感じました。
 こうしてのんびり研究留学をしていた期間、学位留学について考える時間はかなり多かったと思います。性別や出身国でカテゴライズすることはあまり好ましいことではありませんが、渡航先の研究室に所属していた博士課程の学生4人は全員女性で、そのうち3人はそれぞれ別の国から来ている留学生でした。一方、東工大で所属していた研究室には日本人男性しかいなかった上、東工大の博士課程にそのまま進学すると同じ学科の同級生には女性がいなくなるという現実が待ち受けていました。もう少し言えば、学科全体を見渡しても女性教員が助教1名しかいないという点もネックでした。正直なところ、身近な場所で女性のロールモデルがいなくなるというのは、精神的にもキャリアを考えていく上でもかなりハードな環境だと思います。女性や留学生が多く、多様性が尊重されているUC Berkeleyの研究室の存在を知ったことで、少しだけ学位留学に対するハードルが下がりました。
 その後、留学中に大きく背中を押された瞬間が2回ありました。1回目は、初めて国外で開催された国際学会に参加した際、同じ東工大地惑の修士課程を修了し米国で博士号を取得、現在は研究者として活躍されている先輩から大学院留学についてのお話を伺った時でした。実は、この先輩は私が学部2年の時に参加した米国大学院学生会主催の学位留学説明会で登壇されていて、昔も今も変わらずアカデミア分野で活躍されています。学会の休憩中にコーヒー片手に少しだけお話させていただいたのですが、この時印象に残ったのが「同じアメリカでポスドクになる場合でも、日本で学位をとってアメリカに来るのと、アメリカで学位をとって残るのとでは全く違う。将来どちらの国で働きたいかで進路を決めたら?」ということでした。薄々感づいてはいましたが、アメリカで研究者になるためにはアメリカの学術会で認められる必要があるので、学生時代に米国の学会に積極的に参加し、米国の教員とネットワークを築いて信頼を得ることが非常に重要なようです。そのために、米国でPhDを取得するというのは米国の研究機関で認められるための一種の証になるだろうと思います。これは日本に対しても同じことが言えて、日本のアカデミアの一員として研究に従事したいのであれば、日本で働く研究者やコミュニティによる信頼を得ることが大切になります。もちろん、いずれのケースにも例外として活躍されている方はたくさんいらっしゃいますが、どちらのコミュニティの一員になりたいかでPhDの取得先を選ぶというのは、当時の私には思いつかない新しい視点で新鮮でした。
 背中を押された瞬間2回目は、JSPSサンフランシスコオフィスが主催している日本人研究者の集いに参加した時でした。前半は米国大学院で活躍されている日本人教授陣による特別講演に参加し、後半は懇親会で現地のPhDを取得された日本人の大学院生・ポスドクさんと多く交流させていただきました。その中で、特別印象に残るポスドクに出会いました。彼は学部卒業直後に渡米していたのですが、私が「現在UC Berkeleyで研究留学をしていて、修士を取り終わったら博士で学位留学をしようかなと思っていて」という話をした途端、「修士課程とか時間とお金の無駄じゃない?なぜ学部卒で出願しなかったの?」と言われてしまいました。初対面にも関わらず、ド直球を投げつけてきたポスドクには大変驚いてしまい、思わずその場で号泣してしまいました。しかし、彼の経済状況や家族の病気の話を聞くと、修士課程に進学する金銭的な余裕がなく、博士号を取得するためには給料が支給されるアメリカの大学院に進学する以外の選択肢が取れなかったという状況を理解しました。彼のパーソナルストーリーを聞くまでは、学位留学というのは大学入学時から成績がよく、研究も順調で海外に挑戦できるポテンシャルがあるようなごく限られた優秀な人だけが挑戦する舞台だと勝手に思い込んでいて、その結果、学位留学に対するハードルの高さを感じていたように思います。しかし、実際には経済的な事情で渡米せざるを得なかった人、自分の国の政治が不安定でまともに勉強できる環境がないために渡米した人など、世の中を見渡せば最初からポテンシャルが高い人だけでなく、それぞれ理由や事情があって米国の学位留学に挑戦していることを知りました。そして、自分は彼らの状況と比べたら幾分恵まれた環境にいて学位留学に興味を抱き続けているのに、なぜ挑戦しないのだろうと、当時のんびり研究留学をしていた自分は少し反省しました。そんな彼が最後には、「俺でもできたからお前にもできる。本気で研究者になりたいならアメリカに来い。今から出願準備をすればいい」と背中を押してくれたことで、初めて米国の大学院に出願する決心ができました。今となっては、彼にはとても感謝しています。
 そんなこんなで、大学入学から興味を持っていた学位留学という選択への挑戦に至るまで5年近くかかってしまい、修士2年になってようやく本格的な準備を始めることになりました。今はインターネット等で気軽に学位留学経験者の話を聞くことができる時代ですが、「学位留学に興味はあってもなかなか出願に挑戦できない」という人は結構多いのではないでしょうか。私も全く同じ気持ちで4年間の大学生活を過ごしていたので、今回初めてこのエピソードを公開ブログとして残しました。以上、博士課程0年目の備忘録でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?