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語りえぬことには沈黙せよ

オリジナルとは何か。すべての著作物を調べることなしに、自分で創造したものがオリジナルであると断言することは、つまり、目の前の想いをよせる人に、あなたは世界で一番大切な人です、と言うようなものだ。

下記内容抜粋

自分が存在していることを仮定せずに、自分の存在を証明できるか

どう決まっているかはわからないが、すべて起こることは決定論的に決まっ
ている、ということに意味があるのか。何が起こるか本質的にわからない、ならば決まっているとは言えないのではないか。

ある確率過程があり、自分のいる宇宙では起こらなかったとする。確率を認めない世界では、はたして、どこか別の宇宙でその確率過程が起こった、と決めつけてしまう。

卵が先かニワトリが先か。原因と結果という因果律で世界の時間の流れをとらえる描像ならば、その延長線上で説明が必要になるだろう。ただし、原因が結果になり、結果がさらに原因になる構造だとしたら、宇宙が定常的に存在しているものだとしたら因果律の描像は果たして正しいのだろうか。

オリジナルとは何か。すべての著作物を調べることなしに、自分で創造したものがオリジナルであると断言することは、つまり、目の前の想いをよせる人に、あなたは世界で一番大切な人です、と言うようなものだ。

「誰でも読めるが誰にも読めない書」by ニーチェ のような一見、矛盾している文章が成立するのは、言語とそれを解釈する意識の織りなす特殊性からきている。この文章も例外ではない。

死んだらどうなる、死後の世界とは。もし仮に死後の世界があり、そこにいる人と会話ができたとする。肉体はないが、意識として精神が存在しているような状態。しかしよく考えてみよ。意識は存在しているのだから死んではいない。本当の死とはそれすら無になった状態でなければならない。すると、死後の世界を語るということは宇宙の終焉を語ることに他ならない。

宇宙は何から始まったのか、の問いに対してxから始まったと答えたとする。すると間違いなく、そのxは何から生まれたのか、と返ってくる。宇宙の始まりがあったとするなら、それは実体があるものであってはならず、無のような何もない状態でなければならない。宗教では神に対応し、物理学者にとっては数学に対応する。神の存在や数学へのあくなき探究心の必然性はこうして生まれたのかもしれない。

土地の所有権?そもそも人間に宇宙のどこかの所有権などない。あるとすれば借地権だけだ。それもそんなおこがましい考えを持っていたら、いずれ貸してももらえなくなる日がくるであろう。

作品は永遠に残る。いい言葉だ。ただし、誰の目にも とまらなかった作品は残った、といえるのだろうか。どんどん情報の流通が速くなっていき、情報の伝わる範囲も加速度的に拡がっている。速ければ速いほど、たしかに、すぐに多くのところにいきわたる。が、しかし同様に速ければ速いほどすぐに忘れ去られて、すぐまた別のトレンドが流行り(はやり)出す。それは、残った、といえるのだろうか。ゆっくりでも、じっくりと少しずつ染み渡りローカルに浸透し、根付いていく、そうすればすぐには忘れ去られない。よい作品とはそういうのもなのではないだろうか。

作品の寿命とは。作品中で語られている精神的な部分が未来に継承され続ければ永遠に続くであろう。

※執筆にあたっては生成系AIは一切利用しておりません。ただし、漢字変換など人工知能分野の技術は使用しております。

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